クリスマスを一人で過ごすことについて

むっしゅたそ

クリぼっちは実は粋な過ごし方?

私はクリスマス、花火大会、祭り、初詣の日は呼ばれない限り外には出て行かない。格闘技観戦は大好きだが、試合はネットで観ている――でも、作品を書く情報集めのために、行かなきゃなとも思っているのだが、私は作品のためにどうやら身体をはれないようだ。『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる岸辺露伴は、漫画のために野生の蜘蛛を食べたが、私は友達が「キモイ展」で買ってきた、食用ゴキブリですら気持ち悪すぎて食べられなかった。周りの人間はエビの味がして旨いって言っていたのだが……


人混みが苦手なのは間違いないが、これは一番の理由ではない、ノリについていけないわけではない。


――天気の好い日に外に出たいとも思わない。


芥川賞作家、三田誠広の『天気の好い日は小説を書こう』は、小説ハウツー本で私が最も役に立つと思った本だ。お勧めもできる。内容も当然として、タイトルがとても優れていると個人的に思うのだ。実際、天気の好い日に敢えて家に居るような若干暗い人間のほうが、執筆活動には向いているのではないだろうか。


私は、皆が外に出て賑やかにしている時間に、いつもの部屋で寝っ転がると、物凄く「ほっとする」。きっとこの感覚を持っている人は、意外と多いのではないだろうか?


かといって祭りが嫌いなわけではなく、行ったらそれなりに楽しんで帰る(しみったれてるから、楽しんで帰らなければ損だとも思っているきらいがある)。だから行くときはたいてい酒をずいぶん飲むことになる。


でも実際に、集団の中で感じる孤独と、一人で居るときに感じる孤独は、種類が異なると私は思う。とりわけ辛いのは前者だ。理由を後付けで考えてみると、集団の中の孤独は、人と居てもなんだか寂しいからなのではないだろうか。つまり、一人でいて寂しさのようなものがあっても、脳が「それはデフォルトだぞ」と教えてくれるから、それも織り込み積みだから、たいして苦痛ではないからだろう。――対して集団の中の孤独は、なぜ人が居るのに寂しさがあるのだろう、おかしいな、と脳が誤作動のような状態にあるから、それが必要以上の苦痛を生んでいるのではないだろうか?


一人の孤独のほうがマシ、そこまでは分かった。では、皆が賑やかにしているときに、意図的に一人で過ごすことでどうして「快楽」や「安心」が生まれているのだろうか?


それは、なんというのか、世間のしがらみから逃れて、物凄く「自由」な感じがするからだと思う。前ならえ! 右向け右! が嫌いだった人には、きっと共感してもらえるに違いない。


逆に、台風の日、大雨洪水警報がでているような日は、私はやたら外に出たがる。誰もが家にいる時間に、運転していたり、カフェに入ってコーヒーを飲みながら作業をしていると、物凄く「ほっとする」からだ。(実際にそんなことはないのだが)世界に人間が自分だけになったような感覚に浸れて、それがタマラナイ。


これは別に私が極度のへそ曲がりだというわけではないと思う。仙人のような人間だというわけでもないと思う。きっと似たような人が居るに違いない。例えば、運転中、渋滞に巻き込まれたら、時間遅延以外のストレスがかかるのは、たいていの人は経験しているはずだろうし、幼少期学校に行って人に囲まれていても「なんか違うな」と思っていた人は多いだろうし、「友達100人できるかな」の歌詞が、好きじゃなかった人も居るだろうから。


ただし、祭りはやはりあったほうがいいと、個人的には思う。祭りの中で部屋で過ごす安心感がなかったとしても、尚あったほうが良い気がする。やはり、祭りがないと生活にメリハリがつかないし、日本人は特に季節や四季を大切にする民族だからだ(といっても、今年は春夏秋冬ではなく夏と冬だけだったな、と苦笑したものだが)。


要するに行くのであれ、行かないのであれ、祭りというのは精神の区切りをつけるのに非常にスパイスとなるのだ。このスパイスを大切に生きていきたいと、この歳になってようやく感じるようになった。


よって、クリスマスは電気代の無駄遣いとか、自分はクリスチャンじゃないとか、そういうことを言うのは無粋だし、本質から逸れてしまうのではないだろうか(最近では、物語を書いているのだから、聖書くらいは読んでおこうとも思うようになった。世界で一番売れている物語なのだし)。


それに、――もしも仮に、神様が自分に模して人間を作ったと仮定したら、神様も人間と同じく寂しがりのはずで――人間が神様を祭らないと、神様も寂しいだろう。そう考えると、誰かが祝ってやったほうが良いに違いない。


でも、「私が忘れずに毎回、個人的に祝わなくても、多くの人間が代わりに祝ってくれる」と考えると、物凄く人類がいとおしく、まさに仲間であるという感覚が芽生えてくる。それは実に感動的だ。――例えば、自分の親族のお墓を皆が参ってくれるような感覚がそれに近いだろう。


だが今日、日本人に特有の四季の感覚は確実に薄れてきている。桜に日本人はこだわりをなくし、多くの人は俳句も読まなくなった(私もだ)。


しかし、宗教的信仰を捨てる民族は居るが、祭りを捨てた民族はほとんどいないのではないかと想像してしまう。日本に住んでいると特にそうだ(上座部仏教の僧侶は、祭りを捨てているそうだが、彼らは例外だろう)。


もちろん時代の節目というのは、人生をグラデーションするには最適であり、そのためのアクセントとしての祭りというものが、人生に於いて重要なことは、歳を重ねるたびに実感するようになった(村上春樹も、作中に時代感をこれでもかと詰め込んでいるが、それを読んで懐かしさやノスタルジアを感じる人が多いから売れているのではないだろうか)。


今年はクリスマスに予定はない。だから私はこれからも、「行かない祭り」を大切にしようと、心の中で思うのであった。

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