第2話プロローグ2 基礎体力つくり


 体育館の裏手。まだ春先だというのに湿った空気がまとわりつき、一年生たちは汗を流しながら校庭をぐるぐると走らされていた。

 シューズが土を叩く音が、まるでリズムを刻む太鼓のように響きわたる。


「……っはぁ、はぁ……マジかよ……まだ走んのか……」


 列の後ろで背の高い細身の土屋 鏡が、先輩の目の届かないところで思わずぼやいた。


「ほんとだよな。毎日毎日、走ってばっか……卓球台なんて触らせてもらえねぇ。これじゃマラソン部だぜ」


 隣を並走する石狩 大地が、汗まみれの顔をしかめてぼやく。彼は体格のいいガッチリ型だが、さすがに息が荒い。

 足は鉛のように重く、喉は砂を飲み込んだように乾いていく。


「ったく……卓球やらせろよ。あのブクブク太った先輩、自分のダイエットに付き合わせてんじゃねぇか……」


 鏡が小声で毒づいた、その瞬間だった。


「――おい! 一年!」


 鋭い声がグラウンドを突き刺した。

 振り向けば、二年の教育係・武留田が腕を組み、仁王立ちで睨みつけている。眉間には深い皺。


「コソコソ喋ってんじゃねえ! 全員連帯責任だ! 三周追加!」

『えええぇぇーーっ!!』


 呻き声が一斉に上がる。しかしもちろん、免除されるはずもない。

 足取りはどんどん重くなり、視界は揺れる。やがて口数も消え、皆ただ無言で地面を蹴り続けるしかなかった。

――こうして、西中卓球部一年生の「基礎体力づくり」という名の試練は、容赦なく続いていった。

 ようやく走り込みが終わったときには、誰もが膝に手をつき、肩で荒い息をしていた。

 その時だった。部室の奥から、ゴロゴロと卓球台が運び出されてくる。

 一年生だけのために出された予備の台であり、古びて埃を纏う。

 差し込む太陽の光を受けて、緑色の台面が鈍く反射した。


「……おお……」


 誰からともなく声が漏れた。

 汗でぐしゃぐしゃの顔にも、ようやく希望の色が差す。

 まだラケットをもっていない一年生のために、使い古されたラケットが手渡される。

 新品など一つもない。赤と黒のラバーは剥がれかけ、グリップには無数の手汗の跡が残っている。

 だが、それを握った瞬間――「本当に自分は部員になったんだ」という実感が、ずしりと伝わってきた。


「じゃあ……台を拭け」


 武留田が無造作に雑巾を投げてよこす。命令口調は相変わらずだが、受け取った一年生たちの胸は高鳴っていた。

 雑巾を滑らせ、冷たい台の感触が掌に伝わる。つい先ほどまで心を押し潰しそうだった走り込みの苦痛が、一瞬で切り替わった。

 城戸が隣の土屋に笑いかける。


「やっと……だな」


 次の瞬間、カチン、と白球が台に落ちる音が響いた。

 小さな音だったが、一年生全員が一斉に顔を上げる。

――ここからが、本当の始まりだ。

 武留田が白球を指先でつまみ、台に軽く突いた。


「いいか。最初はラリーなんて考えなくていい。ラケットに当てる、それだけだ」


そう言って、無造作に城戸へボールを放る。


「うっ……!」


 慌てて構えた城戸だったが、ボールはラケットの横をかすめて背後の壁へコツンと跳ねた。

 どっと笑いが起こる。


「おい城戸、空振りかよ!」


だが、その笑いは馬鹿にするものではない。

「自分もきっと同じだ」と思うからこそ、安心して笑えたのだった。

次は大樹の番だ。

 恐る恐るラケットを差し出すと――パシンッ、と軽い音を立てて、白球は意外にも台の上に返った。


「おおっ! 入った!」


 周囲の一年生が一斉に声を上げる。

 しかし武留田は顔色ひとつ変えず、次の球を投げる。

 二球目はネット直撃。三球目は天井に舞い上がり、四球目は足元に落ちる。

大樹は真っ赤になりながらも、必死にラケットを振り続けた。


「くそっ……意外と難しい!」


 その後も、順番に全員が挑戦していく。

 ラケットの角に当たり、ボールが横へ飛んだり。

 台に届かず、床を転がったり。

 ひとりが成功すれば皆で喜び、失敗すればまた笑い声が響く。

 つい数分前まで、地獄の走り込みでうなだれていたのに――今は、全員が顔を上げていた。

 大樹はふと胸の奥が熱くなるのを感じた。

 これは何だろう。


「悔しいけど、もっと打ちたい」


――気づけば、そんな思いが心の奥に芽生えていた。

それは、仲間と共に駆け抜ける青春の始まりを告げる確かな感覚だった。


 しばらく打ち合いを続けるうちに、自然と一年生たちの口から声がこぼれるようになっていた。


「ナイス! 今のいい音だったぞ!」

「いや、偶然だって!」

「偶然でも返ったら立派だろ!」


 台の横では、そんなやり取りが次々と飛び交っていく。最初は緊張で肩をこわばらせていた石狩も、ミスをするたびに仲間から「ドンマイ!」と声をかけられ、そのたびに気持ちが少しずつ軽くなっていった。

 それは馬鹿にするような笑いではなく、どこか安心させてくれる笑いだった。――

「次は俺も同じようにやらかすかもしれないから、気にすんな」。そんな無言の合図を共有しているような、不思議な一体感がそこにあった。

 ある日の練習中、大樹が強引に振り抜いたラケットから放たれたボールは、妙な回転をまといながら予想外の方向へ飛び、コツン、と石狩の頭に当たった。

 一瞬、全員が「やばい」と思ったように固まる。だが次の瞬間――大爆笑。


「お前、わざと狙ったんじゃねえのか!?」

「違う違う! ほんとに偶然だって!」


 大樹は両手を振って必死に弁解するが、その顔が余計に笑いを誘う。頭を押さえた石狩も、むしろ吹き出しながら「次は仕返しするからな!」と構え直した。

 ラリーが続かなくてもいい。サーブがネットに引っかかっても、スマッシュが空振りでも、そこにあるのは笑いと励ましだけだった。練習というより、まるで遊びの延長のように時間が過ぎていく。

 けれど、その笑いには確かな意味があった。ひとつの白いボールを必死に追いかけるたび、失敗と笑いが重なって、彼らの心を結ぶ見えない糸が少しずつ太くなっていく。

 走り込みのときはただの「部活仲間」に過ぎなかった一年生たちが――この瞬間から「同じ夢を追う仲間」へと変わり始めていた。

 汗まみれの笑顔と、体育館に響く笑い声。まだ勝ち負けすらおぼつかない初心者の集まりだったが、その中には未来に続く光が確かに灯っていた。

 大樹はラケットを握りながら、心の奥で小さな決意を抱く。

――この仲間たちとなら、きっとどこまでもいける。

 そんな根拠のない自信が、胸いっぱいに広がっていた。

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