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 入学から間もないある日の休み時間、乃紫はどこかに駆け出していったかと思うと、休み時間の終了間際に目を真っ赤にしながら教室へ駆け込んできた。

 肩で息をしている。しかしそれは身体的な体調不良ではなく、恥辱や悔恨からくるメンタルの変調だと、私は瞬時に見抜いた。


 既に乃紫とは一度言葉を交わしている。だから私が「葛城さん」と何気ない調子で話しかけることも容易かった。

 乃紫は「うるさい。いま話しかけないで。超ムカついてんの」と、机に伏した。予想通り、彼女は具合が悪いわけではない。何かに腹が立っているだけだ。



 何か――とは言ったものの、私はその理由すら既に手繰り寄せていた。

 直ぐ側で聞き耳を立てられていることも気づかないまま繰り広げられた、クラスメイトの噂話。もともと私はこういう性格なので、気配を消すことなど簡単だったわけだ。新しい自分になりたい……とこの場所にやってきた意志とは逆行するように思えて、これも私が新しい生活を始めるための一手段に他ならない。



 乃紫がこの高校に来たのは「中学の時に好きだった先輩を追いかけてきた」という理由らしかった。その先輩とやらの顔も名前も私には分からないが、見てくれは決して悪くない彼女を振るような相手だ。相当な面食いか、あるいは既に別の恋人がいるか。



 いずれにせよ、今の乃紫の様子を見る限り、せっかくここまで追いかけてきたにも関わらず、彼女の恋は一方通行で終わってしまったらしい。



 可哀想に。

 お疲れ様でーす。



「先輩に恋人でもいた?」



 乃紫の耳元で、私が声をひそめて呟くと、彼女は跳ねるように顔を上げた。今も昂った感情が塗りたくられたその表情に、ほんの僅か戸惑いの色が滲んでいる。


 相変わらず耳ざわりの良い声で、乃紫は「どうして、あんた、先輩のこと」と零した。



「やっぱり、そっか。拒絶されて、今は悲しみに暮れてるってわけね」

「うるさい。あんたには関係――」

「あるよ」



 言いさま、私は乃紫の腕を掴み、立ち上がらせた。もうすぐ休み時間が終わることも構わず、そのまま彼女の腕を掴んで教室を出てゆく。校舎の一番端にある西階段まで向かう道すがら、チャイムが鳴った。

 乃紫は「ねえ、なんのつもり。もう授業始まっちゃったじゃん」と漏らしている。アスファルトみたいに硬く滑らかな彼女の声色が、俄に揺らいでいるのを感じる。

 やがて階段の踊り場に辿り着いた今も、私だって内心では気が気じゃない。でも、彼女にそれを勘付かれてはならないから、つんとした調子で言った。



「葛城さん」

「なによ」

「泣いたら解決するなんて思ってないよね」

「え?」



 私の指摘が予想外だったらしく、彼女は猫のような目を見開く。



「たった一回で諦めるの? 本当に欲しいものなら、何度傷ついても自分のものにしなよ」



 私はさらに彼女の心のやわらかい部分を、強く押す。

 基本的に他人などどうでもよくて、その分、自らの興味の対象に貪欲。

 私がこの間で感じ取った彼女への印象は、きっと的確に葛城乃紫という人間を表している。


 少し間を置き、乃紫は静かに呟いた。



「あんた、どうしてそこまで……」

「貴女の新入生代表挨拶、好きだった」

「はァ?」



 授業が始まり、静まり返った廊下に乃紫の声が響く。彼女はハッとした表情で口元を押さえた。

 現実にこのリアクションをする人間が、いま目の前にいる。

 でも、私がすべきなのは、そんな彼女を笑うことではない。



「どこがよ。心にもないことを言わされただけなのに」

「ううん。あの立ち振る舞いに、他人に媚びない誇り高さを感じた。……だから、貴女にはずっと、そういう女の子でいてほしいだけよ」



 私は乃紫に微笑みかける。いま彼女に掛けた言葉には、ひとつも噓などない。ただ、その言葉によってもたらされる結果が、私の本当の狙いであるというだけだ。



 彼女は私を壊してくれない。

 だから私は、逆に彼女を壊してやることに決めた。

 どう頑張っても指一本引っ掛けられない壁に何度もぶち当たらせ、爪を剥がせてもなお、その身を叩きつけさせる。不毛なことを延々と繰り返させる。

 やがて、いずれ心の根がぽっきり折れたところを、私が優しく抱きしめる。



 その果てにあるのは、救いでもハッピーエンドでもない。

 これは、心中だ。



「……あんたに言われなくたって、諦めたりなんかしないわよ」



 吐き捨てるようにして言うなり、乃紫は私の手を振りほどいて、走り去ってゆく。その方角は教室ではなかった。



 彼女という方舟の船底に、たとえ小さくとも穴を開けた達成感を噛み締める。やがて自ら蓄えた冷たい水の重さに耐えきれず、沈みゆく姿を想像する。


 確かに「同じ性別の相手に一目惚れする」など、珍しいことではないかもしれない。



 遠ざかってゆく栗色の髪を見つめながら、私は確かに、笑んでいた。

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インフレイム 西野 夏葉 @natsuha

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