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 私は乃紫と同じクラス、席が隣になるという幸運ぶりだった。

 しかし私は、幼少期から対人関係に重大な欠陥を抱えている。どうしても、一度も話したことのない他人へ自分から話しかけることができなかった。具体的には、小学生の頃、癖で「あ」が枕詞になっていたせいで周囲から揶揄からかわれていたトラウマが邪魔をしている。また他人から笑われるのでは……という恐怖感が先を行く。作文コンクールだって本当は出たくなかったけれど、私の家は親が厳しいので、仮病すら使えなかった。その結果が、今だ。



 私はこんな自分を、彼女に否定してほしかった。

 ゴミを見るような目で、蟻を踏み潰すかの如き無自覚のもとで、とどめを刺してほしかった。

 なのに私には自ら彼女の靴の裏を狙って進み出ることができない。自分から「介錯してくれ」と頼む度胸すらない。壇上にいた時はあんなに遠かった彼女が、今はこんなに近くにいるのに――。



「ちょっと?」



 暗闇で後ろから息を吹きかけられても、ここまで驚かなかっただろう。入学式ではマイク越しでしか聞けなかった葛城乃紫の声が、私の耳元で弾けた。



「あっ!」



 叫びそうになって口元を押さえるという動作は、脚本の中でしか起こり得ない動作だ。現実には声しか出ない。今の私のように。

 まだよそよそしさの残る教室の空気が、私の叫び声をきっかけにして一点に収束してゆく。あいつ誰。何なん。ちょ、怖。そんな感想が凝縮され、あの時のような好奇の目線に――。



「いや、リアクション良すぎな? アタシ、驚かそうと思ったわけじゃないし」



 乃紫は、壇上での仏頂面が嘘のように、私に笑いかけている。同時に彼女が顔の横で掲げた手には、使い込んでスリーブのヨレた消しゴムが指先で摘まれていた。それが私のものであることはすぐに分かった。何かの拍子に落とした消しゴムが、彼女のそばに転がっていったらしい。



「あんたのでしょ? これ。そこのペンケースの口も開いてるしさ」



 乃紫の問いかけに答えたいけれど、酸欠の魚みたいに、口を動かすばかりで声が出ない。やがて彼女は、私の返答を待つのが億劫になったらしく――。



「んーまあ、いいや。他の人のだったらあんたが返しといて」



 そう言った乃紫は、私の右手を取ると、掌の中心に消しゴムをのせて、手を包み込むように持たせてきた。彼女の手は冷たいかと思いきや、意外と私よりあたたかくて、すべすべとしていた。それだけ明確に感覚を捉えていても、私は今も自分の中で起きた化学反応を抑えるのに精一杯だ。


 彼女は私の思い描いていた、サディスティックさや他者への無関心だけで稼働する無感情な低音少女ではなかった。

 一方的と笑われそうだが、裏切られた心地さえする。こういうゼロかイチかでしか判断できない性格が、自分が抱える最大の欠点だとは自覚している。でも私はこの気持ちを止められない。



 葛城乃紫。

 私はあなたに笑いかけてほしかったわけじゃない。消しゴムを拾ってほしかったわけでもないし、それを手で包み込むように渡してほしかったわけでもなかった。こいつ救いようがねえな……みたいに睨んでほしかったし、消しゴムなんて気づかないふりをして明後日の方向へ蹴り飛ばしてほしかった。手など払い除けてくれたほうが嬉しかった。


 なのに、どうしてそんなに優しいのか。

 だったら壇上でもにこやかに、希望だの夢だのと眠たいことを語ってほしかった。声が頭蓋骨の中で反響して爆発しそうな、よそ行きの高音で話してほしかった。私の期待を裏切らないでほしかった。私が初めて他者に興味を抱いた称号を穢さないでほしかった。



 私は、貴女の手で粉々に壊されたかったのに。

 貴女なら、私のような存在を明確に拒んでくれると信じていたのに。



 私の心情を知らないまま、乃紫はフライパンで熱されるバターみたいに、とろりとクラスへ溶け込み始める。私は中身を失い、あとはゴミ箱に捨てられるだけの包み紙。結局、私はこんな存在のままで終わってしまうのか。せっかく新天地に来ても、誰にも見向きもされずに――。

 


 否。そんな結末は絶対に認めない。

 許さない。

 償ってもらう。絶対。

 



 そうして、愛はくるりと姿を変えてゆく。

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