【3】ユテラス・エネルギー
「おはようございます」
いつもの執務室に入って、ごそごそとカバンの中身を確認していると、ぴくっと動くウサギの耳が目に入った。
えっ、と思って小物をかきわけていくと「リビ」と名乗った怪しいウサギの人形が私のバッグに勝手に忍び込んでいた。
「ちょっと、何でここに来てんのよ」
「ダークマターを検出したからだ」
バッグから飛び出そうとするこのウサギをぎゅっと奥にしまい直すと
「分かった。分かった。私が探すから。出てこないで」
と、それだけをなんとか呟いた。
昨晩。はっきり言ってほとんど眠れなかった。
この訳の分からぬウサギと押し問答を繰り広げたからだ。
壁に投げつけられたウサギは、いてて、と立ち上がりながら勝手に話し始めていた。
「いいかい、リツ。僕はね、この地球にはびこる『ダークマター』を清浄して、宇宙の平和を——」
「お休みなさい」
あまりの残業続きでおかしくなったと思って、私は早々と布団に入った。
「待って待って。話聞いてくれないの?」
「ウサギがしゃべるわけないから」
私は、それだけ言うと耳をふさいだ。
ありえない。
これは夢だ。
ただの幻だ。
「聞いて。聞いてよ、お願いだから」
「やだ。絶対やだ。もう明日も早いから寝るの」
ウサギの話が長かったわけではなく、これだけのやり取りで一晩が終わってしまった。
——はあ、と思わず溜息が漏れる。
執務室の蛍光灯は今日もやけに明るく部屋を照らしていて、無機質な事務机達を白く浮かびあがらせている。定時の前の同僚達は、私と同じようにくたびれた顔をして虚空に視線を泳がせている。
やがて鳴り響き渡った力の抜けたような始業のメロディ。
よしっ、と大きく力を入れて伸びをすると
「律子さん。彼がさ、もう今日来てるんだよね」
という先輩の申し訳なさそうな声。
思わず窓口に視線をやると、サイトウが寂し気な顔で突っ立っていた。
***
「駅前の交差点の信号だよ! 青の時間が短すぎる! ワシが渡りきる前に赤になるんだ。年寄りを殺す気か! 」
「あそこの信号、短いですよね。分かります。いつも私も駆け足なんです」
私はもう、かれこれ2時間、鼓膜にねっとりと張り付くような、湿り気のある声を聞いている。
「ちょっと時間を調整すればいいだけじゃないか!お宅らで時間を長く設定し直してくれ!」
「お気持ち、分かります。長くしてほしいですよね」
でもね、と私は続ける。
「お気持ちは痛いほど分かります。でも、信号機を管理しているのは『警察』の管轄なんです。区役所では、信号の時間をいじれないんです……警察署の交通課に行っていただけないと……」
「そうやってまた、たらい回しにして、何も解決してくれないんだろう!」
彼が叫んだところで、小さな声が足元から飛んできた。
「おい、大変だリツ。ダークマターを検出した!」
思わず足元を見ると、バッグから飛び出してきたリビが、私のスラックスの裾を引っ張っている。
「急げ、早くしないとエネルギーが爆発する。もう宇宙空母の進撃が始まるぞ!」
何度も指で黙れとサインをし、しっしっと手を振っても彼は声を出し続ける。
「私は、日本の将来を心配しているんだよ!国民の安全と平和こそ国の礎なんじゃないか!そのためにはまず法整備をしっかりと——」
あ、平和の話なら防衛省に言ってください、という言葉を飲み込みつつも、私は必死でリビを抑えつけようとする。
堪えきれなくて、もう片方の足で踏みつけるようにリビを振り払おうとするも……しがみついたまま離れない。
彼から見えないカウンターの裏側で、私の両脚と、リビの壮絶な争いが始まっていた。
上半身だけはなんとか動かないように保持しているが、下半身の激しい動きにつられてしまう。
「——お姉さん、大丈夫?」
私のあまりの不審な動きに、サイトウが口を挟んできた。
これはチャンス!すかさず——
「ちょっと、お腹痛くて、お手洗いいってきますね!」
とリビを素早くつまみあげ、駆け出していった。
***
女性トイレの自動照明がブゥンと灯る。
中に誰もいないことを再確認すると、薄ピンクのベージュに塗られた壁にリビの体を、ぐいっと押し付けた。
「ちょっと、仕事中なんだけど、黙っててもらっていい?」
首ねっこをおさえられた小さなウサギの人形は、壁におしつけられながらもじたばた喘いでいた。
「ダークマターがもう持たない! 早く発散させないと!」
「そんなこと、私には関係ないの。あんたが自分でやればいいでしょ」
「君にしか、君にしかできないんだ! 君の子宮エネルギーが必要なんだ!」
「気持ち悪いこと言わないでもらっていい?」
やれやれ、といったようにリビは首を振ると静かに話し始めた。
「いいのかい、恐らくあのサイトウという男性はダークマターに侵されている。ここ一帯のダークマターを発散させれば、きっと彼はここには来なくなるだろう」
私の心はぴくりと揺さぶられた。
あの男に、私は毎日数時間もの勤務時間を奪い取られている。
1日2時間。
週で10時間。
1か月で40から50時間。
私の人生で、それだけの時間を彼に奪われてきた。
それが無くなるというのなら——ちょっとだけ話を聞いてもいいかもしれない。
「続けて」
それだけ言った。
「やり方は簡単だ。今、ここで、君にオナニーをしてほしいんだ!」
私はすかさずリビを、この小さな体を——
勢いよく床にたたきつけた。「ぶべっ」 という変な音だけが、トイレの中にこだました。
次の更新予定
処女と兎のリビドーガーリック ぽぽこぺぺ @popokopepe
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。処女と兎のリビドーガーリックの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます