第5話 エントロピーの向こう側、再会の光
すべての記憶が光の粒子となって霧散した後、私は深い眠りの中にいた。
それは、母の胎内に抱かれているような、あるいは宇宙の始まりの静寂に身を委ねているような、絶対的な安心感だった。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
不意に、私の頬を春の風が撫でた。
瞼を開けると、そこには眩いばかりの青空が広がっていた。
私は、並木道のベンチに座っていた。
自分の手を見る。そこにあるのは、瑞々しく、何の傷も、何の薬の副作用も知らない、二十歳の私の手だった。
心は湖のように静かだ。
かつて私を焼き尽くそうとしたあの焦燥も、何者かにならなければならないという強迫観念も、子供を持てない自分を責める刃も、すべては遠い前世の夢の中に置いてきた。
私は、ただの「真由美」として、ここに存在している。
自由で、無垢で、これから何者にでもなれる、始まりの季節の中に。
「……あの、すみません」
頭上から、少し低くて、穏やかな声が降ってきた。
その声を聞いた瞬間、私の胸の奥で、小さな、けれど確かな火が灯った。
記憶ではない。それは魂の震えだった。
顔を上げると、そこには一人の男性が立っていた。
整った眉、少し理屈っぽそうな眼鏡の奥の、優しく知的な瞳。
私の知っている「老いさらばれた観測者」ではない。そこにいたのは、未来への情熱と少しの不器用さを湛えた、若き日の健一さんだった。
「これ、君が落としましたよ」
彼が差し出したのは、一冊の真っ白なノートだった。
私がそれを受け取ろうとして指先が触れた瞬間、パチリと静電気のような火花が散った。
その瞬間、私の脳裏に、激流のような「予感」が走った。
この人と歩む未来。
共に食卓を囲み、笑い合い、時には夜を徹して語り合う日々。
かつての世界では「絶望」と呼ばれた結末さえも、今の私には、この人と共にいられるなら、それさえも愛おしい「生」の彩りに見えた。
彼は私を見て、不思議そうに首を傾げた。
「……なんだか、不思議だ。君に会うのは初めてのはずなのに、ずっと前から、君がこうしてここで僕を待っていたような、そんな気がするんです」
彼の言葉に、私は堪えきれず微笑んだ。
涙がひとしずく、頬を伝ってノートの白紙の上に落ちた。
でも、それは悲しみの涙ではない。
一度すべてを失い、忘却という名の福音を経て、ようやく「本当の出会い」に辿り着いた喜びの滴だった。
「ええ。私も同じです。……ずっと、あなたを探していた気がします」
私は立ち上がり、彼の目を見つめた。
今度の私たちの時間軸は、もう逆流したりはしない。
二人で同じ方向を向き、一日ずつ、一分ずつ、共に老いていく。
たとえその先にどんな困難があろうとも、私たちは、この真っ白なノートに「新しい物語」を書き込んでいくのだ。
かつて彼が、私を救うために記憶を捨てさせてくれたように。
今度は二人で、愛という名のエントロピーを積み上げていく。
「お名前を、伺ってもいいですか?」
彼が少し照れくさそうに尋ねる。
私は最高の笑顔で、彼の手をしっかりと握りしめた。
「真由美です。あなたの名前は?」
「僕は……健一といいます」
桜の花びらが、今度は空からゆっくりと、祝福のように二人の肩に舞い降りた。
逆行する雪ではない。正しく流れる時間の中の、本物の春。
さようなら、悲しい過去の観測者。
こんにちは、私の新しい、最愛の伴侶。
私たちは光に満ちた並木道を、寄り添いながら歩き出した。
真っ白なノートの第一ページには、春の陽光が、目に見えない文字で「希望」と記していた。
Final happy ending
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昨日から来た妻と… 明日に向かう僕… 2(忘却という名の福音) 比絽斗 @motive038
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