第4話 さよなら、私の愛した観測者
世界は色彩を失い、光そのものへと溶け始めていた。
駅のホームに立つ私の視界は、もはや現実を捉えていない。電車の轟音は胎内回帰の鼓動のように響き、行き交う人々は過去へ流れる光の粒子として網膜を滑り落ちていく。
私の身体は、十代後半のしなやかさを取り戻していた。
コートの下の指先は細く、幼い。
かつてその指が、不妊治療の基礎温度計を握りしめ、体温のわずかな上下に一喜一憂し、絶望に震えていたことなど、今の私には信じられなかった。その記憶の断片は、もはや私のものではなく、どこか遠い異国の、悲しい物語の一節のようにしか感じられない。
ポケットには、あの「先生」――健一が持たせてくれた手紙がある。
電車の座席に身を沈め、私はそれを開いた。
『真由美
君がこれを読む時、君はもう僕が誰かも思い出せないだろう。君にとっての僕は、昨日言葉を交わした親切な物理学者に過ぎないのかもしれない。 けれど、僕は君に感謝している。
君が若返り、僕との日々を忘れていく姿を見守ることは、残酷な拷問であり、同時に最も美しい奇跡だった。
君の肌からしわが消えるたび、僕は知った。僕たちが過ごした十年が、君をどれほど摩耗させていたかを。君が「僕」という重荷を捨てて手に入れた瑞々しさを、僕は否定できない。
エントロピーは君の中で逆流し、秩序を取り戻した。
君はもう、子供を産めないことに泣く必要も、僕の愛に応えられない罪悪感に苛まれる必要もない。
君は、自由になったんだ』
手紙の文字が滲んでいく。
悲しいのではない。文字という概念が私の中から剥落し、意味がただのインクの染みへと還っていくのだ。私は手紙を畳み、窓の外を眺めた。
雪が降っていた。
しかし、それは空から降るのではない。地面の結晶が重力から解放され、夜空へと昇っていく。時間の逆流は、私の肉体を超え、観測する世界そのものを浸食し始めていた。
私は電車を降りた。
そこは懐かしい故郷のはずだが、風景は記憶より鮮やかで、輪郭が揺らめいている。
駅の階段を駆け上がる足取りは羽のように軽い。私は「何かに向かって」走るのではなく、「何かから解放されて」飛んでいるのだと確信した。
不意に、前方から一人の男性が歩いてきた。 コートの襟を立て、うつむく姿。すれ違いざま、視線が合った。 その瞬間、胸の奥が氷の針で刺されたように痛んだ。知らない人だ。疲れ果てた年上の男。 けれど、彼の瞳の中に、私は見た。私が忘却によって返却した「時間の重み」を。彼が背負っているのは、私たちの愛の残骸なのだ。
彼は立ち止まり、唇を震わせた。
「……まゆ……み……」
その呟きは、昇っていく雪の音にかき消された。私は彼を、道端の枯れかけた花を見るような、無垢で残酷な眼差しで見つめ返し、軽やかに笑って追い越した。
さようなら、孤独な観測者。
あなたは私を愛しすぎた。だから私の苦しみをすべて肩代わりして、私を「始まり」へと送り出した。忘却は、あなたがくれた最後で最高の、そして最も残酷な贈り物。
階段を上がるたび、意識はさらに遡る。
大学生活、失恋、受験の焦燥。世界はどんどんシンプルに、輝かしくなっていく。残るのは、砂場の匂い、ココアの温かさ、父の背中の安心感。
ついに実家の玄関に立ち、インターホンを鳴らす。 扉が開き、「ただいま」と口にしたのは、幼い少女の声だった。
そこには、すべての「傷」を負う前の私がいた。暗い森を彷徨った女も、物理学者の妻として孤独に耐えた女も、もうどこにも存在しない。
私が温かい家の中へと吸い込まれた瞬間、健一がいた世界との接続がプツリと切れた。
――同時刻、健一はホームで、空へ昇る雪を見つめていた。 彼の腕には、名前も思い出せない誰かの筆跡で埋まった古いノートが残されていた。
だが、ページをめくってもそこにはもう文字はない。真由美が過去へ遡り経験を消去した影響で、彼女に関する記録も因果律の彼方へ消滅し、白紙へと戻っていた。
健一は、真っ白なノートを抱きしめ、声を上げずに泣いた。 彼は彼女を救ったのだ。自分という存在さえ消し去ることで、彼女を絶望から救い出した。これは愛の勝利であり、同時に、被観測者を失った観測者の究極の敗北でもあった。
雪が逆回転する星のように天へ昇る。
街の灯りは一つ、また一つと消え、夜空は完全な闇となった。
その中心で一筋の光――「真由美」という純粋な魂の輝きだけが、誰にも届かない場所で美しく爆発した。
ありがとう、健一さん。
あなたが私を忘れてくれたおかげで。
私があなたを忘れられたおかげで。
私は、こんなに綺麗に、何もない自分になれました。
雪の上に落ちたノートが風に煽られ、最後のページに一瞬だけ文字が浮かび、消えた。
『愛とは、共に時を重ねることではなく、相手の時間を自由にしてあげることだったのだ』
真由美という女性の苦難の記録は完全に消去された。
そこにはただ、新雪のような真っ白な静寂だけが広がっていた。
End of Act 1
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