人魚人

山田あとり

 

 人魚はエラを持たない。

 上半身が人、下半身が魚という姿だから。

 それは水に棲む生き物として、ちょっとした制約だ。彼女らは水面に浮かび上がり息をつぐ。その姿は地上に暮らす人間たちにもたびたび目撃されてきた。

 揺れる藻のごとき髪、あらわな肩――しかし胸の豊かさには個体差がある。


 魚人は尾ビレを持たない。

 上半身が魚、下半身が人という姿だから。

 それは水に棲む生き物として、けっこうな制約だ。彼らは泳ぐより歩く方が得意で水底にいることが多い。なので人間たちには存在をあまり知られていなかった。

 砂地をつかむ足指、筋骨たくましい二本の脚――間に小さな三本めがあるように見えるのは生殖器だ。人魚が産んだ卵に向け精を放つための。


 人魚。そして魚人。それは雌と雄。

 孵化した瞬間から分かたれる姿と生態は、この種族の恋を難しくする。



――――――



 ある人魚がいた。

 特に美しいことはない。平凡な顔立ちとふっくらした腕や背中を持つ、どこにでもいる人魚だった。

 やや内気で、人間に見つかった時は慌てて水の深いところまで潜ったという。潜りすぎて暗い淵に突っ込みそうになるあたりで出会ったのが、ひとりの魚人だ。


 大柄な魚人だった。

 後頭部から背ビレにかけては強そうに張り出し、鱗もつややか。だが穏やかで控えめな性格だった。

 潜ってくる人魚へ立派な胸ビレを振り制止する。そんなに急いでどうしたのかと。


 我に返った人魚は顔を赤らめた。人間はここまで追いかけてこないのだから、怯えなくてもいいのに。

 恥ずかしそうにする人魚は愛らしかった。魚人はまぶたのない目をさらに見開く。

 だが内気な人魚は目を伏せた。小さく会釈をすると身をひるがえし浮上していく。

 尾ビレで優雅に水を叩き、明るい水面へ去りゆく人魚。その影を魚人はじっと見送っていた。



――――――



 それから魚人は、時おり浅瀬を訪れるようになった。水底をノシと歩いては明るいところまで登るのだ。恋しい人魚をかいま見るために。

 人魚がいないことも多かった。泳ぎが得意な人魚たちは魚人よりも行動範囲が広い。しかし運よく見つけた日も、魚人はただただ見つめるだけだった。

 気持ちが通じなくてもよかった。だって彼らの間に言葉はない。魚人の喉は音を発するようにはできていないから。

 明るい水の中、群れの仲間とクルクル泳ぐ人魚の髪が水中に踊るのを、魚人はずっと眺めていた。



――――――



 季節がくると、人魚たちは切ない顔で藻の陰に卵を産み落とす。恋しい人魚との間に子をなしたくて、魚人は必死で歩いた。

 見つけた人魚は仲間たちとともに卵を産むところだった。群れのそばには他の魚人たちも集まっている。

 いつも控えめな魚人でも、ここはゆずるわけにいかなかった。大柄な体を活かしてライバルを押しのけ目当ての人魚の近くに割り込んだ。

 内気な人魚はトロリとした目で腰を振る。あえぐように口を小さく開け、腹に力を入れ締めつけると卵があふれ出た。そのさまが愛おしくてたまらなくなった魚人は猛り、声もなく叫びながら精をやった。

 おそらく自分が父親になれただろう。魚人は輝く瞳を人魚に向ける。人魚はみずからの卵に精を混ぜた、たくましい魚人とまなざしを交わした。

 やわらかな笑み。

 生命の大仕事を行った疲れと誇らしさで、二人はうなずき合った。


 後に孵った子らは、広い水世界に漂い泳ぎながらそれぞれに育ったり死んだりしたと思う。



――――――



 それからも内気な人魚は浅瀬で暮らした。水面で息をつがねば生きられないからだ。

 控えめな魚人は逆に、水の外では死んでしまう。それに明るい瀬まで行くのは気がひけた。舞うように泳ぐ人魚に比べ、自分はなんと不格好なのか。ずっと人魚を想ってはいたが岩陰から見守ることが多かった。

 そんな魚人の訪れを人魚もまったく知らないわけではない。砂に残った足跡があるからだ。その不思議な形の窪みに気づくと、人魚はそっと砂を指でなぞった。



――――――



 人魚と魚人は幾年もそうして過ごした。そしてどちらも老いていった。

 つややかだった二人の鱗は輝きを失くし、痛々しく剥がれたところもある。人魚の髪には白いものが混じった。魚人の筋肉はおとろえ尻が垂れた。

 動きが鈍る。食事が捕れない。体が弱る。そろそろ死期か。


 命の最期は恋しい人魚のそばにいたくて、魚人は浅瀬を目指した。だがそれも若い頃のようには登れない。一歩、また一歩と踏みしめて行く。


 その時だ。

 ゆらり。

 水中を降ってくる影があった。人魚だ。あの内気な人魚だ。

 光を求めて差し伸べる腕が、むなしく水をかく。その尾ビレにはもう泳ぐ力が無かった。魚人が脚を弱らせたように、人魚も泳げなくなっていた。

 溺れる。

 老いた人魚はみな、溺れて死ぬのだ。


 魚人は砂を蹴り、泳いだ。溺れゆく人魚の下へ。

 愛しい人魚を体で受けとめると、二本の脚で不器用に水面を目指す。空気を。空気を吸わせなければ。

 だが元より魚人は泳ぎが苦手だ。人魚を背負って真っすぐ浮上するなど無理なこと。ただもがくだけで、どうすることもできない。


 人魚は生をあきらめながら沈んできた。しかし途中でぶつかった、冷たい鱗。

 力をふりしぼり身を起こした。自分を助けようとしているのがいつもの魚人だとわかり微笑む。

 水面を求めていた腕を魚人に回し、抱きしめた。

 驚いて魚人の脚がとまる。


 ゆら、ゆらり。

 二人はそのまま沈んでいった。

 笑んだ人魚と、初めての幸せに抱かれた魚人。


 ごぽっ。

 幾つかのあぶくが暗い水底から涌いた。

 そして――それだけだった。



     了


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人魚人 山田あとり @yamadatori

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