一番星の消える駅、さようなら私の光

どれほどの時間が過ぎただろう。

一定のリズムを刻んでいたレールの響きが、不意にその色を変えた。

ガクン、と減速する重力。肩に預けられていた温かな重みがふっと離れ、隣で長い睫毛が震える。深い微睡まどろみの底から、意識が浮上していく気配が伝わってきた。


「……っ、しまった」


慌てて身を起こすその横顔を、悪戯を見つけた猫のような目で見守る。喉の奥で、小さく笑いが零れた。

ついさっき、眠る頬に触れたばかりの唇が、秘密を抱えたまま微かに熱い。


「おはよう、お寝坊さん」

「……悪い。いつの間にか寝てたみたいで」

「ふふっ、いい度胸してるよね。花も恥じらう乙女を隣に置いて、あんなに安心して寝息を立てるなんて」


窓枠に頬杖をつき、面白がるように顔を覗き込む。

バツが悪そうに頭をかく、その無防備な仕草。胸の奥が、締め付けられるほどに愛おしい。


「通りがかった他のお客さんも、みんな呆れて首を振ってたよ。『あーあ、勿体ない』って」

「……うっ、マジか」

「まあでも、初犯だからね。今回は特別に許してあげる」


あまりにあっさりとした赦免しゃめん

逆に怪訝に思ったのか、反射的に窓ガラスへと顔を向けた。自分の顔に落書きでもされていないか、左右に振って確認している。


「……なんか、妙に許しが早いな。寝てる間に、変なことしてないよな?」

「失礼しちゃうな。私がそんな子供っぽい悪戯をする人に見える?」


大げさに肩をすくめてみせる。


「……いや、見える」

「鏡、見る?」


バッグから取り出した手鏡を、その顔の前に突きつけた。


「あ、いや……大丈夫です」

「心広き私は、今回だけは不問にしてあげるって言ってるの。……それともなに? 罵倒されたかった? 怒られたかった?」

「いや、滅相めっそうもないです。……本当に、すいませんでした」

「よろしい」


満足げに頷き、視線を窓の外へと戻した。

夜の闇を鏡にしたガラス。そこに映る横顔は、楽しげな色を演じながらも、誰にも触れさせない孤独な光を宿している。


(……本当は、とっくに『お仕置き』しちゃったんだけどね)


心の中で、小さく舌を出す。

唇に残る、微かな感触と熱。あれが罰だなんて、悠人は夢にも思わないだろう。

もし知ったら、怒るかな。それとも——喜んでくれるだろうか。


想像するだけで、胸の奥が甘くうずく。

けれどすぐに、その熱を理性の蓋で閉じ込めた。


(——ダメ。そんなこと考えちゃ、ダメ)


期待してはいけない。これ以上、望んではいけない。

この『お仕置き』は、最初で最後の、ワガママなのだから。


『まもなく——終点、〇〇駅です』


無機質な車内アナウンスが、夢の時間の終わりを告げる。

深く、短く息を吸い込む。化粧室で作り上げた、一点の曇りもない笑顔マスクを貼り直し、振り返った。


「ほら、もう着くよ。降りる準備して」

「ああ」

「お土産と、思い出。……なにひとつ、この車内に忘れないようにね」


列車がホームに滑り込み、長い溜息のようなブレーキ音を残して停止した。

プシューッ、と気の抜けた音がしてドアが開く。

その瞬間、指先から血の気が引いた。


改札の向こう、人工的な蛍光灯の下に立つ二つの人影。

判決を下す前の裁判官のような冷徹な眼差しが、一点の迷いもなくこちらを凝視している。


「……まずい」


思考が追いつくより早く、身体が動いた。立ち上がろうとした腕を強引に引き寄せ、冷たいコンクリートの柱の影へと力任せに引き戻す。


「パパとママがいる」


呼吸を忘れ、熱に浮かされたようにまくし立てた。


「こんな時間に男の子と一緒にいるところを見られたら、悠人が誘拐犯扱いされちゃう。本当に、警察沙汰になるよ。パパならやりかねない」


一瞬ぽかんとして、それから困ったように眉が下がる。

「そんな大袈裟な」

「大袈裟じゃないの! うちは娘を温室の希少花だと思ってる超厳戒態勢なんだから!」


必死に、その身体を死角へと押し込む。

その時——視界の隅で、決定的な瞬間を捉えてしまった。


ポケットから取り出した財布を、通学鞄の一番奥底へとしまい込む無意識の動作。


ジジッ——。


ファスナーを閉じる乾いた音が、二人の運命を永遠に閉じ込める錠前のような響きとなって、夜の静寂を切り裂いた。


心臓が早鐘を打つ。

今だ。

財布が鞄の底——すぐには取り出せない場所に消えた、今しかない。

これなら、追ってこられない。


「悠人はまだ出ないで」


声の震えを喉の奥で噛み殺し、下腹に力を込める。


「自販機でジュースを買うふりでもして、私が連行された後に出てきて。お願い」

「……どこのスパイ映画だよ」


呆れたような口調に反して、彼は大人しく柱の影に身を潜めた。

肺の奥まで、冷たい駅の空気を吸い込む。


これが最後。

これ以上、この人をこちらの世界に巻き込むわけにはいかない。


「詩織」


離れる直前、背後から名前を呼ばれた。

振り返ると、薄暗い照明の下で、祈るような、真剣な眼差しがこちらを射抜いていた。


「また明日、学校で」


心臓に、鋭い氷柱つららを突き刺されたような痛みが走る。

明日。そんなものが、私たちにあるのだろうか。

それでも、口元は反射的に弧を描いた。今日一番の、完璧な笑顔を演じきって。


「バカ悠人。もう日付変更線は越えてるから、『今日』だよ」


虚を突かれた顔をして、それから照れ臭そうに髪をかいた。

「そっか。……じゃあ、今日、学校で」


——なんて残酷な響きだろう。

「うん」と頷けたら、どれほど幸せだったか。

けれど、もう終わりだ。

だから、悪役にならなくてはいけない。すべての未練を、笑顔の裏側に隠して。


「悠人」


優しく、その名を呼ぶ。これが最後だから。


「ん?」


その瞳は、まだあんなにも無防備で、優しい。

だから——心臓に深く爪を立てるような、最も鋭い言葉を選び取る。


「さようなら、岸田くん」


瞳孔が、大きく揺れる。

「……え?」


「私のことは、全部忘れてください」


きびすを返し、改札へと歩き出す。

背後で、弾かれたような足音が響いた。

追いかけてくる。

でも——間に合わない。


震える指先で、IC カードをタッチセンサーへ叩きつける。

電子音が鳴り、ゲートが開く。滑り込むように通り抜けた、その直後。


ピンポーン!


空気を切り裂くような、無機質な警告音。

赤いランプが点滅し、プラスチックの扉がバタンと閉ざされた。


「——っ、しまっ……!」


背後で、慌てて鞄をまさぐる音が聞こえる。

財布は鞄の底だ。すぐには出せない。

乱れた呼吸。呼ぼうとする声。

けれどその声は、透明なガラスの壁に阻まれ、喉の奥で詰まったまま、届かない。


振り返らなかった。一度たりとも。

両親の元へ駆け寄り、心配する声に謝罪を重ねながら、車へと乗り込む。


車が走り出し、駅の灯りが遠ざかっていく。

暗闇に溶けていく駅を見つめながら——張り詰めていた糸が、プツリと切れた。

笑顔が、ガラス細工のように音を立てて砕け散った。


さようなら、悠人。

私にこんなに美しい夢を見せてくれて、ありがとう。

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銀河が降りてくる、ラベンダーの海 よのめ @a6081736

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