銀河を走る箱舟と、内緒のお仕置き
窓際のボックス席。背中を預けると、使い込まれたシートが柔らかく沈み込んだ。
微かな振動と共に、車窓の風景が動き出す。
遠ざかるホームの灯り。あの小さな駅も、二人だけの秘密の共有も、すべてが夜の底へと滑り落ちていく。
車内には暖房が効いていて、外の寒気が嘘のように遮断されていた。
空調の低い唸り。レールの継ぎ目を越える、鉄と鉄が噛み合うリズム。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
その単調で規則的な揺れが、張り詰めていた神経の結び目を、ひとつ、またひとつと解いていく。
窓の外は、水で溶いた墨汁のような濃紺。
時折、民家の灯りが流星のように視界を掠めては、また深い闇に飲み込まれていく。
銀河を走る汽車の話。
お祭りに向かう者、誰かを探す者、そして——もうこの世にはいない者たち。
彼らは静かに座り、待っている。
サウザンクロス——南十字星という名の終着駅を。
(……やめよう)
小さく頭を振り、不吉な連想を振り払う。
「何か考えてるのか?」
隣からの低い声に、意識が
「ううん」
ガラス越しの虚像に向かって微笑む。
「ただ、この列車がどこまでも走り続ければいいのにって」
「どこまで?」
「時間の止まる場所まで」
「そんな場所、あるのかよ」
「さあね」
指先を冷たい窓ガラスに押し当てる。結露が体温で滲み、指紋の形に透明な穴が開いた。
「でも、もしあるなら、そこに少し長くいたいなと思って」
「……君と一緒に」
ガタン、と車体が大きく揺れた。
「もし、本当にあるなら——」
言葉は風音に混じりそうなほど小さいけれど、そこには確かな芯があった。
「僕も一緒に探すよ」
明滅する街灯の光が、その横顔に深い陰影を落としては消える。
「……見つからなかったら?」
「その時は、ずっと探し続けるさ」
窓の外、星の川は止まることなく流れている。
列車はいつか必ず、終着駅に着いてしまう。
けれど少なくとも今——この閉ざされた箱の中だけは、同じ速度で、同じ場所にいられる。
***
「ちょっと席を外すね」
バッグを手に立ち上がる。
揺れる車内、背もたれを伝いながら後方の化粧室へと向かう。
鍵をかけた瞬間、張り詰めていた糸が音もなく切れた。
鏡の中の顔はまだ笑っている。けれど、瞳の縁は微細血管が浮き出て赤く滲んでいた。
バッグのファスナーを開く。
白いピルケースを取り出そうとして——指が止まった。
底の方に押し込まれていた、赤と白のパッケージ。
カイロだ。
……いつの間に。
指先が震える。
予兆もなく、視界が歪んだ。
一雫、また一雫。床に染みを作っていく。
「ダメ……」
唇を噛み、手の甲で必死に涙を拭う。
泣いてはいけない。悟られてはいけない。
けれど、決壊したダムのように感情が溢れ出して止まらない。
声を殺し、嗚咽を喉の奥で噛み殺す。
膝から力が抜け、冷たいリノリウムの床に崩れ落ちた。
どうして。
どうしてそんなに優しいの。
どうして——こんなにも、別れ難くさせるの。
指先にある未開封のカイロは、硬くて、冷たい。
でも知っている。封を切れば、火傷するくらいに熱くなることを。
不器用で、真っ直ぐな、あの人のように。
(ごめんね、悠人)
(好きにならせて、ごめんね)
(私も……大好きだよ)
(離れたくないよ)
どのくらいの時間が過ぎただろう。
深く深呼吸をして、立ち上がる。
鏡の中の顔は、ひどく濡れていた。
冷水を浴びせ、化粧ポーチを開く。
コンシーラー、ファンデーション、チーク、マスカラ。
手慣れた動作で、色彩を重ねていく。
かつては美しくなるための魔法だった。
今は——真実を隠すための、無機質な
鏡の向こうの少女に、ニッと笑いかけてみる。
うん、大丈夫。これなら、誰も気づかない。
***
席に戻ると、彼は夢の中にいた。
窓枠に頭をもたせかけ、浅い寝息を立てている。
流れる街灯の光が、長い睫毛に影を落んでは走り去っていく。
通路に立ち尽くし、無防備な寝顔を見下ろした。
今日、初めて本当の意味で出会った人。
私に光をくれた人。
(もう……)
(女の子を放ったらかして寝るなんて、重罪だよ?)
そっと
近くで見ると、鼻筋が通っていて綺麗だ。
そして——唇。
さっき、触れられなかった場所。
誰も見ていない。
世界には今、レールの奏でるリズムしか響いていない。
息を止める。
ゆっくりと、距離を詰める。
彼の匂いが、鼻先をかすめる。
チュッ。
蝶が羽を休めるような、ほんの一瞬の接触。
触れた頬は、陽だまりのように温かく、柔らかかった。
心臓が破裂しそうだ。
けれど、彼は——起きない。
(……これは、お仕置きだからね)
(でも——許してあげる)
悪戯っぽく笑い、隣の席に滑り込んだ。
冷たい窓ガラスに頭を預け、そっと手を伸ばす。
彼の手の甲に、羽毛のような軽さで触れた。
そこにある、確かな体温。
意識が、揺り籠に乗せられたように遠のいていく。
夢と
「……詩織」
寝言かな。それとも、呼んでくれたのかな。
どっちでもいいや。
今の私はね、世界で一番——
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