第4話 イノセンス

 これは、走馬灯ってやつなのか。


 俺はイルカの化け物に飲み込まれ、真っ暗な闇の中にいる。

 時間の感覚が曖昧だ。ほんの一瞬の出来事だったのかもしれない。けど、俺の中ではやけに長く感じられて、その間に、いくつもの記憶が頭の奥から浮かび上がってくる。


 どれも、今さら思い出さなくてもいいような、どうでもいい記憶ばかりだ。

 でも、不思議と、どれも鮮明だった。


 俺は……ごくごく普通の一般家庭に生まれた。

 パートと家事を両立していたお母さんと、警察官のお父さん。その二人の間に生まれたのが、俺だ。


 特別に裕福だったわけでも、不自由だったわけでもない。

 ただ、平凡で、当たり前の毎日がそこにあった。


 どちらかといえば、俺は内気な子どもだった。

 昔の一人称が「俺」じゃなくて、「僕」だったことが、そのまま性格を表していると思う。自分に自信なんてなくて、前に出るのは苦手。友達も多い方じゃなかった。


 放課後は、家に帰ってゲームをして、アニメを観て。

 それで満足していた。外に出て何かを成し遂げたいなんて、考えたこともなかった。いわゆる、どこにでもいるオタクだったと思う。


 ――でも、ある日を境に、それが変わった。


「僕」は「俺」になった。

 いや、なったというより、そうならざるを得なかった。


 きっかけは、お母さんが死んだことだ。


 俺が中学1年生の頃に起きた交通事故だった。

 パートの帰り道、暴走した自動車に撥ねられて、あまりにも呆気なく命を落とした。昨日まで普通に話していた人が、次の日にはもういない。そんな現実を、俺は受け止めきれなかった。


 あの時のことを思い出すと、今でも胸の奥が煮え繰り返る。

 怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよく分からない感情が渦を巻いて、ズキズキと心臓を締めつけてくる。


 運転していたのは、八十代の男だった。

 ブレーキとアクセルを踏み間違えたらしい。ニュースではよく聞く話だ。今の世の中じゃ、珍しくもない事故なのかもしれない。


 ――でも、それが自分の家族に起きるなんて、思いもしなかった。


 それだけじゃ終わらなかった。

 母の死後、父の職場に合わせて引っ越しが決まった。


 ただでさえ、友達を作るのが得意じゃなかった俺だ。

 ようやくできた、少ない繋がりも、全部リセットされた。ゼロから、いや、ゼロ以下からのスタートだった。


 俺の中は、完全にめちゃくちゃだった。

 誰かに縋りたいのに、縋れる相手がいない。お母さんはいなくなってしまって、父は仕事で家にいないことが多い。


 気づけば、家のことは俺がやるようになっていた。料理も、洗濯も、掃除も。

 最初は戸惑っていたはずなのに、いつの間にか、それが当たり前みたいな毎日になっていた。


 そんな俺に、彼は声をかけてくれた。


「転校生、名前は?」


「え……?」


 別の中学に転校した初日。

 転校生というだけで珍しかったのか、教室の視線が一斉に俺に集まっていた。どう反応していいか分からずに固まっている中で、真正面から声をかけられて、思わず変な声が出てしまう。


「すまんすまん。俺も少し前に転校してきた身だからさ」


 そう言って、彼は少し照れたように笑った。


「転校って、心細いだろ? 同じ経験した俺が、最初に声かけなきゃって思ってさ」


 僕は――その時は、まだ「僕」だった――何度か口を開いたり閉じたりしてから、ようやく声を絞り出す。


境井さかい……奏馬そうま


「そうか、奏馬っていうのか」


 彼は一度だけ、僕の名前を確かめるように繰り返してから、明るく名乗った。


「俺は、岸本きしもと拓哉たくや。よろしくな!」


 そう言って、拓哉は迷いなく手を差し出してきた。僕は……いや、俺は少しだけ躊躇してから、その手を握り返す。


「うん、よろしく」


 それからというもの、俺と拓哉は、気づけば色々な場面で一緒に行動するようになっていた。放課後に寄り道したり、行事で同じ班になったり、テスト前に愚痴を言い合ったり。特別なことをしていたわけじゃない。ただ、気がつくと隣にいる。そんな関係だった。


 進学した高校まで一緒だったのは、正直驚いた。

 別に示し合わせて同じ高校を受けたわけじゃない。合格発表のあと、どこに受かったかを話しているうちに、たまたま同じ名前が出てきただけだ。


「もはや俺ら、腐れ縁すぎるだろ」


 そう言って、二人で笑った。

 本当にその通りだと思う。


 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 拓哉がいるなら、新しい環境でも、また何とかやっていける気がした。


 こうして高校生活は、悪くないスタートを切った。

 気づけば半年が過ぎていた。青春小説みたいな、甘くて眩しい日々とは言えないかもしれない。それでも、退屈じゃないし、ちゃんと前に進めている実感はあった。


 それなのに――。


 どうして、俺は今、こんな目に遭っているんだ。

 化け物みたいなイルカに追いかけられて、飲み込まれて、死にかけている。いや、もしかしたら、もう死んだ後なのかもしれない。


 そんな考えが浮かんだ、その時だった。


「いいや、まだ死んでないよ」


 暗闇の中に、声が響く。

 目の前に現れたのは、一匹の橙色の狐だった。


 ああ、そうだ。

 こいつに出会って、助けようとして……その結果が、これか。


 俺は、こいつに関わったせいで、こんな目に遭っているんだ。


「それは……ボクも、申し訳ないとは思ってるよ」


 最初に口を開いたのは、狐の謝罪だった。

 どこか言い訳みたいでもあり、でも誤魔化している感じもしない、不思議な声音だった。


「ボクと関わったせいで、君がこうなってる。それは否定しないよ。それは事実だしね」


 狐は一度だけ視線を伏せ、それから俺を見る。


「でもさ、同時にボクは、君に新しい希望を渡すこともできる。いや……もう渡した、押し付けたって言った方が正しいかな?」


 何を言ってるんだ、こいつは。


「ボクは君を助けたいと思ってる。ボクの力でね。だからさ、君にはその力を自覚してほしい。呼び覚ましてほしいんだ」


 力を、呼び覚ます。

 そんな言葉が、頭の中で空回りする。


 俺に、力?

 狐から、何かを与えられた?


 ありえない。

 これは漫画でも、アニメでも、ラノベでもない。現実だ。俺はただの高校生で、特別な才能なんて何もない。そんな都合のいい話が、あるわけがない。


 そうだ。

 これはきっと夢だ。

 寝てる時に見る、都合のいい夢。

 目が覚めたら全て元通りの悪夢だ。


「いいや、夢じゃないよ」


 狐は、即座に否定した。


「このまま何もしなければ、君は本当に死ぬ。それで終わりだよ」


 違う。

 違う違う違う違う違う。


 だって、痛みがない。

 体の感覚も、どこか鈍い。だからこれは悪い夢だ。悪夢に決まってる。目を覚ませば、全部なかったことになる。


 そうであってほしい。


 俺は、別に特別じゃなくていい。

 普通でいいんだ。


 普通に学校に通って、友達とくだらない話をして、時々怒られて。大学に進んで、恋人ができて、就職して。

 そういう、どこにでもある人生でいい。


 特別なんて、いらない。

 俺は、特別な人間じゃない。


 ――なりたくも、ない。


「……そうか。それは、残念だよ」


 狐はわずかに肩を落とした。

 ほんの一瞬だけ、本当に落胆しているように見えた。


 それでいい。

 これで全部、終わる。


 これは悪夢なんだ。

 目を覚ませば、教室の机に突っ伏して寝ていて。怖い夢を見ただけだって笑われて、それで終わりだ。


 そう思った、その直後だった。


「仕方がない――ならば強制だ。同化インテグレイト


 狐がそう告げた瞬間。


 体の内側で、何かが弾けた。


 血管の中を、燃え盛る炎が一気に駆け巡る。そんな感覚だった。

 全身が一斉に熱を持ち、心臓の鼓動が跳ね上がる。頭の奥が冴え渡り、視界が急に鮮明になる。


 体が、活性化していく。


 なのに――痛みがない。

 違和感も、拒否反応もない。


 それどころか、不気味なほど自然だった。

 まるで、最初からこうあるべきだったみたいに、すんなりと馴染んでいく。


「本当はね、君の意思でやってほしかったよ」


 狐は淡々と、でもどこか焦った声で続ける。


「でも、君が死ぬと、ボクも死ぬ。そこまで余裕のある状況じゃなくなったんだ」


 何を、言っている。


「死は平等だ。そして、死は意思によっても加速する。だったら、生も同じさ」


 狐は、はっきりと俺を見据えた。


「ボクは君と違って、生きたい。死にたくないんだ」


 胸の奥が、ざわりと揺れる。

 こいつは……俺を助けたいんじゃない。自分が生き残るために、俺を使っている。


 この狐は、一体何をした。

 同化インテグレイト

 そんな言葉、聞いたこともない。


 俺の体は、確かに変わっている。

 何かが流れ込み、何かが書き換えられている感覚だけが、はっきりと残っていた。


「見ててね」


 狐は、楽しそうに口角を上げる。


「君が特別なニンゲンだってことを、ボクが証明してあげる」


 その笑顔を見た瞬間、背筋が冷えた。

 ――これは、善意なのか、悪意なのか。


 俺はもう、後戻りできないところまで来てしまったのだと、嫌でも理解させられた。

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季節の獣を殺す少年 しろおび @siroobi

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