第3話 生物としての本能
イルカのような形と姿をしているのに、どう見てもそれとは違う何か。いや、それを生き物と呼んでいいのかすら、分からなかった。
全身は真っ青な青色で、どこか透き通っている。光を含んだその体は、神聖さすら感じさせるほどだった。
――けど、その印象は一瞬で吹き飛ぶ。
大きく開いた口。
そこに並ぶ歯――いや、歯なんて生易しいものじゃない。牙と呼ぶ方がしっくりくるほど、鋭く尖り、ギラリと不気味な光を放っている。
その口と牙が、はっきりと俺に向けられていた。
まるで獲物を品定めするみたいに、ゆっくりと、空気を泳ぐように近づいてくる。
考える暇なんてない。
背筋を突き抜ける嫌な予感と同時に、体が先に動いた。
俺は走った。
ただ走った。無我夢中で、視界に入る逃げ道だけを頼りに、必死に足を動かす。
唯一の救いは、この高校の構造をある程度把握していたことだ。
校舎はカタカナの“ロ”の字みたいな形をしていて、行き止まりがない造りになっている。四階建てで、よく使う教室や職員室は南側、校庭もそっちにある。北側には専門教室が並び、一階が職員室と事務室、二階が一年生、三階が二年生、四階が三年生。
そして、今いるのは一年の教室が並ぶ二階南側校舎。そのほぼ中央あたりだ。
イルカの化け物は、西校舎側の奥から、口を開けたまま泳ぐように迫ってくる。
普段なら気にも留めない校舎の配置や動線が、今は必死に頭の中で組み上げられていく。
外に出た方が狭い校舎よりも逃げやすい。
そう思った瞬間、進路は自然と決まった。今いる場所から逃げ切れそうなのは、東側の階段しかない。
俺はそちらに向かって、息もつかずに走る。
呼吸はすでに荒く、胸の奥が焼けるみたいに痛い。普段ほとんど運動なんてしていない俺の肺が、今さらになって文句を言い始めている。足も重くなり、思うように前に出てくれない。
それでも、止まれない。
止まったら終わりだ。そんな考えだけが、頭の中を占めていた。
なんとか階段の位置までたどり着く。
ここから下に降りれば――そう考えた、その瞬間だった。
下の階から、ぬるりと現れる影。
もう一匹のイルカの化け物が、何事もないかのように、優雅に泳いで昇ってくる。
「一匹だけじゃないのかよっ!」
思わず、声が漏れた。
言ったところで何も変わらないと分かっているのに、口が勝手に動いていた。
右の脇腹がずきりと痛む。呼吸のたびに、刺すような感覚が走る。足も少しずつもつれ始めている。それでも、止まってはいけない。
あのイルカの化け物たちに追いつかれたら、ただじゃ済まない。痛い目で終わるなんて、生ぬるい話じゃない。もっと深いところまで、引きずり込まれる。
そんな予感が、はっきりと胸に浮かんでいた。
生き物としての本能が、全力で警鐘を鳴らしている。
逃げろ。
とにかく、生き延びろ。
俺は歯を食いしばり、上り階段を一段飛ばして登っていく。しょうがない。一度三階まで行って、校舎を半周して、反対側の西側の階段に行こう。
十数段ある階段を、足の筋繊維が引きちぎれそうな感覚に襲われながら、必死に駆け上がる。心臓が体の限界を伝えてくるかのように心拍数を上げ、視界がわずかに揺れる。それでも、なんとか三階の最上段までたどり着いた。
止まらない。
止まるわけにはいかない。
俺はそのままの勢いで、頭の中で組み立てた通り、西側の階段へと向かって走った。
「ロ」の形をした校舎の角。
東校舎から南校舎へと切り替わる、その曲がり角で――足が滑った。
一瞬、地面を踏み外した感覚。
次の瞬間、体のバランスが一気に崩れる。
「――っ!」
声を出す暇もなく、俺は近くの教室の出入り口へと転がり込む。
窓付きの扉に、体ごと激突した。
ガシャン、という鈍い音。
扉がひしゃげ、続いてバタンと倒れ込む。その衝撃で、はめ込まれていた窓ガラスが砕け散り、細かな破片が教室の中へ飛び散った。
静まり返った、誰もいない教室に、その音だけがやけに大きく響く。
俺は慌てて床に手をつき、体を起こそうとする。
その瞬間、チクッとした痛みが走った。
見ると、砕けた窓ガラスの細かい破片が手のひらに食い込み、じわりと血が滲んでいる。
「イッテェェッッッツ!」
思わず、悲鳴が漏れた。
でも、そんなことを気にしている余裕はない。
背後から、嫌な気配が迫ってくる。
振り返るまでもなく分かる。
――もう、来ている。
イルカの化け物が、俺の転がり込んだ教室へと、ゆっくり侵入してきていた。
床に残るガラス片を避けることもなく、空気を水みたいに扱いながら、静かに距離を詰めてくる。
「どうする……俺……」
声が震える。
俺はジリジリと後ろへ下がる。背中が机に当たり、それ以上下がれないことに気づいた時、ようやく逃げ場がないと理解した。
戦う?
無理だ。喧嘩なんて、まともにやったこともない。相手は人間ですらない。そもそも、生き物かどうかも怪しい化け物だ。勝てるわけがない。
頭の中は「恐怖」と「逃げろ」という言葉で埋め尽くされていく。
考えようとすればするほど、思考は絡まり、何も選べなくなっていった。
すると、背後から、ぬるりとした気配が広がる。
振り返らなくても分かる。
もう一匹。
別のイルカの化け物が、教室の中へと入り込んできていた。
完全に囲まれている。
その事実が、ゆっくりと現実味を帯びて胸に沈んでいく。
「だ、誰か……!」
助けを求める声が、誰もいない教室に虚しく響く。
しかし、誰も来なかった。
心拍数が一気に跳ね上がる。耳の奥で、自分の荒い呼吸音と、うるさいほどの心臓の鼓動が鳴り響いている。それは、はっきりとした警告だった。
――命の危機だ。
便利になった現代社会で、すっかり忘れていた感覚。絶対的な強者を前にした、生き物としての本能。
俺は、そこでようやく悟った。
ああ、これは――死ぬやつだ。
最初に入ってきたイルカの化け物が、ゆっくりと近づいてくる。大きく開いた口。並ぶ、鋭い牙。
時間が引き延ばされたみたいに、動きがやけに遅く感じた。視界いっぱいに、その青い影が迫る。
次の瞬間――俺の視界は、その闇に覆われた。
俺は――死んだ。
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