怖い父親

神夜紗希

怖い父親

小さい頃から、父は一度も怒ったことがなかった。

声を荒らげる姿を見たこともない。

いつも穏やかで、優しい父親だった。


ある日、私は友達と墓地で遊んでいた。

かけっこをしたり、ふざけ合ったりしているうちに、足がもつれて転び、隅に寄せられていた古い卒塔婆を踏んでしまった。


乾いた音がして、卒塔婆はあっけなく割れた。


一瞬、時間が止まったように感じた。

次の瞬間、私を押した友達は、顔を青くしてその場から逃げ出した。


取り残された私は、どうしていいか分からず、割れた卒塔婆の前で立ち尽くした。


直すこともできない。

誰かを呼ぶ勇気もない。


せめてものつもりで、小さく手を合わせてお辞儀をし、その場を離れた。


家に向かって走っていると、道の先に人影が見えた。


夕日が沈みかけた道路の真ん中に、父が立っていた。

顔は伏せられ、影だけが異様に長く伸びている。


いつもと違う雰囲気に胸がざわついた。

卒塔婆を割ってしまった事が住職に知られてしまい、

もう家に連絡がいったのかもしれない。


それでも、父は優しい。

きっと、一緒に謝りに行こうと言ってくれるはずだ。


そう思い、私は父に近づいた。


「お父さん……あれには、理由があって……」


返事がない。

不安になって顔を上げた。


そこに立っていたのは、父の姿をした“別のもの”だった。


背格好も、髪型も、服装も同じなのに、顔だけが違う。

眉と目は異様に吊り上がり、眉間と額には深い皺が刻まれている。

口は歪み、歯を剥き出しにしていた。


体が震えた。


父ではない。

父であってほしくない。


一歩、後ずさる。

それに合わせるように、向こうも一歩近づいてくる。


怖い。

怖い。

怖い。


呼吸が浅くなり、冷や汗が背中を伝う。

足が言うことをきかなかった。


距離を保ったまま、じりじりと後ろへ下がる。

その時…


「○○? どうしたんだ。一緒に帰ろう」


いつもの、優しい父の声がした。


……なのに。


目の前にいる“それ”の口が、確かに動いていた。


その声を聞いた瞬間、

堪えていたものが一気に溢れ、私は泣き崩れた。


「違う! 違う! お父さんじゃない! やめて!」


恐怖と悲しさと後悔が混ざり合い、言葉が止まらない。


「ごめんなさい!わざとじゃなかったんです!

ごめんなさい!…お父さんを……返してください!」


道路に座り込み、泣き叫んでいると、背後からそっと肩に手が置かれた。


「○○……? どうしたんだ。怪我したのか?」


いつもの、優しい父の声だ。

振り返ると、そこにいたのは、間違いなく“本物の父”だった。


「遅いから、探してたんだ。一緒に帰ろう」


父は、涙でぐちゃぐちゃになっている私の手を引き、立ち上がらせる。


私は思い切り父にしがみつき、泣き続けた。


落ち着いてから、先ほどの場所を見ると、そこには卒塔婆の板屑が落ちていた。


所々に、かすれた墨の跡が残っている。

全て拾い集め、私は父にすべてを話した。


父は黙って聞いたあと、静かにうなずいた。


「正直に話してくれて、ありがとう。

 今から一緒にお寺に謝りに行こう」


住職は最初こそ厳しい顔をしていたが、

私の事をジッと見つめた後、

小さくため息をついて言った。


「反省したならいい。無事でよかった」


住職は板屑となった卒塔婆を受け取ると頷いた。


そうして、私たちは家に帰った。


暗い夜道だが、不思議ともう怖くなかった。

私の横には大好きな優しい父親が側にいてくれるからだ。


もう、大丈夫。

私は繋いでいる父の手を、ギュッと強く握った。


次の日、学校は騒然としていた。


交通事故で亡くなった生徒がいるという。

玄関前で泣いている友達を見つけて詳しく話を聞いた。


その名前を聞いた瞬間、私は固まった。


ヒュッと息を飲んだ。

昨日の出来事が鮮明に思い出された。


…まさか。


とりあえずランドセルをおろしてくる、と友達に一言残し、シューズに履き替える。


心臓が、音が漏れるんじゃないかというくらい、ドキドキとうるさかった。


ざわつく廊下を抜けて教室に入ると、泣き声や噂をしている声で溢れていた。


自分の席に着き、ランドセルをおろした。


ふと、彼女の机に目を向けると、

卒塔婆の割れた板屑が、机の下に落ちていた。

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怖い父親 神夜紗希 @kami_night

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