繭の眠りから醒めて

白菊

繭を出て、さがすひと

 わたくしは、人間からしてみれば、あるいは不可思議な生命体であるかもしれません。


 と申しますのも、私は瓊葩はなの中に生を享けます。それで、周りで甘美なかおりを放つはなびらを喰み、すっかり私自身を隠してくれるものがなくなってしまうと、繭をつくってその中でしばしの眠りにつくのです。


 しかしこの繭には、致命的といってよい欠陥がございました。月光に反応し、ひとの目を惹いてやまぬ微妙な色を纏うのです。


 主人あるじもまたこの繭の色に関心を持たれたようでした。あるいは、主人あるじはこの繭というものを見たことがなかったのかもしれません。


 とにかく、主人あるじは私の眠る繭を瓊葩はなうてなからとってしまって、その手に持ってお屋敷へ帰ってしまわれました。


 私は繭が蕚を離れたときに事態に気がつきました。はなびらを喰ってしまっても瓊葩はなは生きておりますから、私のようなものはその瓊葩はなから繭に養分をとりこんで、そうして自分自身が養分を得て成長するのです。


 その養分の供給が絶たれたわけですから、気がつかぬわけにもまいりませんでした。



 やがて、なにかしれない馨りがしてきました。葩卉くさばなとは違う、けれども不快でない馨りでございました。


「おや、色がわってしまったね。御前おまいは月の明かりが好きなのかい」


 私の、はじめて聴いた主人あるじこえでした。胸に響くような、ひくくて、瓊葩はなのように甘い感じのする心地よい聲でありました。


 主人あるじは繭を月光のもとへ持っていってくださいました。繭は私を死なせまいと、月の明かりから特別な養分を生み出して、私に届けました。


「ああ、美しい。彼の気に入るといいのだけれど、どうだろう!……」


 このときの主人あるじの聲の恍惚とした感じといったら! けれどもそれだからこそ、私はかなしくなったのでございます。だって主人あるじは私の繭にこの聲をあげたのというよりも、と呼んだ人物へかたむけた心のために、この甘やかで心地よい聲をあげたのだとわかったからです。ああ、ああこれが私への賛美の聲であったならどんなに倖せであった乎しれません!



 主人あるじは私に養分を与えてくださいました。陽の光と月の光とをたっぷりと浴びることのできる場所ところへ繭を保管してくださったのです。


 私は主人あるじの立てる、ちいさな音を聴いて心地よく過ごしました。

 私は主人あるじの立てる音のほとんどを好ましく思っておりました。静寂に耳を澄ますと、主人あるじの呼吸するのやら、躰を動かすのに合わせてさらさらいうのやら、なにか薄いものでもめくっているらしいのやら、いろいろの音が聴かれたのです。


 けれども私にも、主人あるじの立てる厭な音というものがございました。なにかざらついたものを細いもので引っ搔くような音でございます。その音が聴こえるとき、主人あるじは決まって呼吸を乱しておいででした。ふだんのとは違う、胸のあたりがぎゅっとなるような調子で呼吸なさるのです。


 で、そのあとには決まっておおきな音が立ちました。ばりばりいうような、激しい音でございます。かたい綉葉はっぱのついた枝を激しく揺すぶるような音が立つこともございました。いずれにしても、私はその音が堪らなく嫌厭きらいでございました。


「ああ!──」


 主人あるじはこのとき、なにか聲を続けていらっしゃいましたが、私にはく聴きとることができませんでした。繭という障壁があったためと思いますが、しかし、どうかすると、私自身その言葉──具体的には名前、の名前であろうと思いますが──を聴きたいと思わなかったためである乎もしれません。




「この繭を破るとき、御前おまいはどんな姿をしているだろう」


 あるとき、主人あるじがおっしゃいました。私はどこかうれしいような感じがして亢奮しました。ああ、この繭が繭として主人あるじに認められたのです! 不可思議な玉でなく、私のような生物の籠もっている殻であると、認められたのです!……


「月明かりに反応する美しい繭でひとをび、そこから出てくると、最初に認めた者に従うとは。おもしろい生き物がいるものだね」


 繭が主人の手に収められました。


「彼のことをしってくれるかい」


 胸のあたりがぎゅうとなりました。


わたしの、だいじなひとなのだよ」


 主人あるじについて話されました。

 彼とはおさない時分に出逢って、三年前まで一日として会わない日はなかった。

 學問を競い、おとなになるとたばこ緑酒さけを一緒にしった。


「言葉にしてしまえばおもしろみのない関係だけれどもね、私は彼がいないと堪らないのだよ。彼は現在いま、ちょっと北のほうの町へいっているのだけれど、おととしから文の返事がなくてね。情けないけれども、耐えられないのだよ。彼になにかあったのではと思うと、恐ろしくって堪らなくなる。こちらからまた文を出そうとも思うのだけれど、どうせ返書へんじがないんだろうと思うと、どうにもかなしくなってね、何度も書いてみるんだけれども、封筒に入れることができないのだ。捨てられた──などと云ってはおおげさだけれど、そんなような、狂おしい氣分きぶんになるのだよ」


 主人あるじは深く息をつかれました。


「やあ、御前おまい、その繭を出てきたなら、ちょっと彼の容子ようすを見てきてはくれないかね。いや、御前おまいにもきっとわかるさ。だってこの部屋のにおいが御前おまいにもわかっているだろう、これは彼が私に影響されて好むようになった馨りなのだよ。彼はきっと、あのころとわっていないんなら、この馨りをくっつけているはずなんだからね」



 私は主人あるじの心がみんなのもとにあるとわかりましたから、もうこの眠りから醒めるのが厭になりました。だってこの繭を出てしまえば、私はをさがしにいかなくてはなりません。どうしてこの繭を出ようなどと思えるでしょう、心地よい主人あるじの馨りをたよりにして、主人あるじの心を奪ったをさがさなくてはならないのです!


 ああ、けれども繭は私を成長させました。そして「あなたはもうひとりでいられますね」とでも云うように、私にここが窮屈に思わして、なんとか外へ出そうとしました。


 それで、私はもう、それに厭と云えないで、繭を破って、主人あるじに出逢いました。私には主人あるじの顔が能く見えませんでしたが、主人あるじには私の顔が能く見えたようでございました。


「まるで人間のようだ。生まれてきたら涙を流すだなんて」


 主人あるじはさようにおっしゃって、私の頬をおおきな指先でぬぐってくださいました。

 私ははねが乾いて満足にかたまると、主人あるじの頬へちかづいて、そっとふれました。

 ええ、そうです、やさしい聲の、私の主人あるじ!……


「私の願いを聞き入れてくれるかい」


 主人あるじがそんなふうにおっしゃったのでは、私にはいいえと申すことはできません。


 私はさいごに主人あるじの周りをぐるりとまわって心地よい馨りを心の深い部分ところで記憶すると、主人あるじの開けられた窓から、主人あるじとおんなじ馨りのするをさがしに、外へ出てゆきました。


 その世界は私のまるでしらぬもので、少しばかり不快なものでございました。







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