第10話 誰でもない場所

目的地は、特別な場所ではない。

少し外れた住宅街。

低い建物と、広すぎない空。


美咲は私を地面に下ろす。

リードが外れる。

ここでは許されているらしい。


私は一歩前に出る。

地面の匂いを嗅ぐ。

新しいが、刺激は弱い。

誰かの生活が、静かに染み込んでいる。


遠くで、子どもの声。

近くで、洗濯物が揺れる音。

世界は、ここでは主張しない。


私は走らない。

急ぐ理由がない。

歩き、止まり、また歩く。

犬として、もっとも基本的な運動。


美咲はベンチに座り、空を見る。

スマートフォンは手にない。

その手は、膝の上で休んでいる。


私は彼女の足元に戻る。

伏せる。

顔を上げ、周囲を一度だけ確認する。


何も起きない。

だが、それは欠如ではない。


生前、私は幸福を否定した。

一時的で、錯覚だと。

今も、その考えは変わらない。

ただ、訂正はある。


幸福は、起きないことの中にも含まれる。


風が吹く。

耳が自然に動く。

身体が、世界に反応する。

思考は、その後だ。


ここは、誰でもない場所だ。

役割も、名前も、評価も薄い。

だからこそ、呼吸が深くなる。


私は立ち上がり、軽く伸びをする。

前足、後ろ足、順番に。

犬として、正しい動作。


美咲がそれを見る。

小さく笑う。

理由は聞かない。


時間は、しばらくこのままだ。

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ショーペンハウアーのぼやき〜なぜ私がトイプードルに転生した?〜 zakuro @zakuro_1230

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