第9話 移動する風景
電車に乗る。
正確には、私は美咲の腕の中で揺られている。
キャリーバッグの内側は暗く、柔らかい。
外界は音だけになり、世界は単純化される。
人の足音、ドアの開閉、アナウンス。
意味を持たない情報が、一定のリズムで流れていく。
都市は巨大な呼吸装置だ。
吸って、吐いて、それを誰も意識しない。
美咲の体温が伝わる。
少し高い。
緊張しているときの温度だ。
「大丈夫だよ」
誰に向けた言葉かは分からない。
私は顔を上げ、鼻先を少し動かす。
バッグの中の空気を確かめる。
異常はない。
窓の外、風景が流れていく。
建物、看板、人。
どれも留まらない。
留まらないものを、人は必死に保存しようとする。
写真、記録、記憶。
私は保存しない。
犬の視覚は、今しか捉えない。
それで足りている。
電車が止まる。
人が降り、人が乗る。
序列も評価も、ここでは一時停止される。
全員が、ただの「移動中」だ。
美咲の呼吸が落ち着く。
それに合わせて、私の身体も緩む。
この同期は、訓練では身につかない。
移動とは、目的地に向かうことではない。
一時的に、役割から外れることだ。
私は再び伏せる。
揺れは続く。
風景は、まだ流れている。
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