第四話

 宵闇よいやみより更に暗い瞳で、北風に操られる彼女は私を見つめていた。停電の影響下により石油ストーブが絶命してしまい、足元がやけに寒い。磨りガラスの向こうでは、渦を巻く熱湯が出口を求めて押し寄せている。


「いやぁ…いやっ!!誰か、だれか助けて!!」


 パニックに陥った私は、胃の内容物が逆流しそうな衝動を抑えつけながら逃げ場を探した。しかし浴場への扉は閉め切られ、もし開いたとしても洪水に巻き込まれて終わりだろう。


 サウナに逃げ込むことも考えたが、密室の空間に自ら飛び込むのは袋の鼠である。本館への脱出もあり得たが恐怖に支配された私の脳は働かず、その発想に至らなかった。


 干渉する素振りを見せず、ただ風がびゅうびゅうと吹き荒れる中で浮遊する顔面に怯える私。すると、彼女は唐突にあごが外れる勢いの満面の笑みで口を開くと、ぽっかり空いた黒い目から何かが溢れ出したではないか。


 墨汁のようなそれは、血の通わぬ頰を伝って軒先の地面に滴り落ちる。アスファルトに染みを作ったそれは留まることなく、蒸発したのか吸収されたのか影だけを残して消滅していった。


 そして残された影が、あたかも意思を持ったかのような挙動を見せ、軒先から玄関の石畳まで這い寄ってくるではないか。


 玄関の下駄箱までも覆ってしまった影は、段差を乗り越えて脱衣所まで侵食してきた。タランチュラの狩を習ったのか、蜘蛛の巣のように放射状に伸びてくる暗黒。心なしか、その終着点に奥歯を震わせる私の身体がある気がしてならない。


「いやぁぁぁぁ!!」


 顔面がにやりと歯茎を露出させながら笑うと、影は私のすぐ側まで迫っていた。気を抜けばつま先が侵食されてしまう勢いだ。首を小刻みに振りながら後ずさりし、背中を押しつけたガラスの向こうでは世界を壊すほどの嵐が巻き起こっている。


「誰か、誰か助けてえぇぇぇぇ!!」


 涙袋が破裂して顔をぐしゃぐしゃにした私が、喉に唾液を絡みつけながら叫ぶと、顔面は以前より頬のしわを強調させて笑った。身を縮こませた私のつま先に影がかかりだした、その時であった。


「ぱん」


 超新星爆発ちょうしんせいばくはつが起きたのか、閃光が脱衣所を包んだ。一瞬の出来事であった。ひとつの光の矢が、床一面に侵食していた影を焼き払ったのだ。


「きゃあっ!!」


 瞳を貫いた光線に瞬きを繰り返すと、津波が帰るように影は玄関へと引いていく。顎が外れる寸前まで口を開けていた顔面は、ぽろぽろと崩れて塵となって消えたのだ。


 すると、急激な光が私を照らす。電気が復旧したのか電灯が光り始めた。


「ったく、気持ちよく汗を流そうと思って来たのに…君も災難だったね。大丈夫だった?」


 のれんをくぐったのは、"蜂ヶ海学園はちがみがくえん"の制服を着こなした少女であった。冬休みの前は私も、毎朝そでを通していた制服だ。この時間には、学園の門は施錠されれるはずなのだが、寄り道でもしてきたのだろうか。


「は、はい…ありがとう、ございます」


 スニーカーを下駄箱にしまった少女は、一直線に私へに近寄って腕を伸ばした。差し伸べられた手のひらを掴むと、彼女はにっこりとして私を引き寄せる。


「番台さん!大丈夫か!?」


 レールが軋む音と同時に、濃厚な水蒸気が背後から放出された。頑固として開かなかった磨りガラスの引き戸が、一気にこじ開けられたのだ。


 そこから聞こえて来たのは、鳴美さんの焦った声である。所々で裏返った声色は、凛とした彼女のイメージと相反するものであった。


「へ…うぇえ!?」


 振り返った私は、既に抜けた腰を砕くようにびっくりした。身体中に夜露を付着させた鳴美さんの片頬が、研いでいない裁ちバサミで切られたように裂けていたのだ。まるで幼児がラズベリージャムを塗りたくられた食パンにかぶりついたような。


「ちょっと、アメさん。口元、汚れてるよ」


「ひより…あぁ!すまない!番台さんも…」


 少女に指摘されると、鳴美さんは慌てて自身の頬を手のひらで擦る。すると、血肉がはみ出ていたはずの口元が、たちまち綺麗な肌に戻っていった。


「いや、もう何が何だか…」


 数分間のうちに様々な恐怖を体験した私の脳は、ショート寸前であった。物心がついた時から、オカルトや都市伝説に触れてこなかったため、現状を受け入れられないのだ。


「これは、説明しておいた方がよさそうですかね」


「そうだね…あまり気乗りはしないけど」


 神羅さんがふくよかな胸を前腕に乗せて呟くと、少女はベストを脱ぎ捨てた。


「では、番台さん」


「は、はい…?」


 しとやかなワイシャツで言い寄ってきた少女を前に引き下がると、彼女は私の腕を掴んで微笑みかけた。


「私達と一緒にお風呂、はいらない?」


「…は?」


 かぽんと、風呂桶の転ぶ音が換気扇に吸い込まれていった。天井から落ちた湯気の水滴が、背中にぽたりと当たって肩を震わせる。


「はぁ〜、いい湯加減だね」


 制服を着ていた少女は"稲葉いなばひより"という名前らしく、やはり私と一緒で蜂ヶ海学園の生徒らしい。彼女は一年生だと言うが、後輩とあまり積極的に絡まない私には知らぬ名前であった。


「緊張してますか、舟橋さん」


「えぇっ!?い、いや…そりゃね?」


 私の隣で髪をお団子にした湯浅ちゃんが、表情筋が硬直した私の顔を覗き込んだ。どういうわけか、彼女も稲葉さんに入浴に誘われたらしい。


「ていうか、さっきのって何だったんですか?私、あんなの初めて見ましたよ」


 まだ網膜に張りついている宙に浮いた顔面は、私を闇に誘い込もうとケラケラ笑っている。


 私が問いかけると、彼女達は唇を針で縫ったかのように黙り込んでしまう。しかし、鳴美さんだけが口を開いて淡々と説明をし始めた。


「あれは"怪異"と言ってね、人間のネガティブな感情に寄ってくる奴らだよ。なんで番台さんを狙って来たんだろうね」


「多分、あんた達のせいだと思うけど?」


「そ、そんなこと、ないですよ!うふふ…」


 稲葉さんが波打つ水面を指差しながら言うと、鳴美さん達は目を泳がせながら首を横に振った。


「…変なことを聞きますが、皆さんって人間…ですよね?」


 私がこの一言を放った瞬間、換気扇が以前よりも勢いを増して回った。蛇口から雫がぴちゃりと落下する音もはっきり鼓膜を揺らす。


 数秒にわたり続いた沈黙を破って、鳴美さんが乾いた笑いを浮かべた。


「当たり前じゃないか。逆に聞くが、人間じゃなければ何だって言うんだい?」


「…その、怪異とかじゃないかなって…」


 極端に察しの悪いし人でなければ、そう疑ってしまうのも当然だろう。立て続けに巻き起こる不可解な現象や、私の目がとらえた彼女達への違和感を説明するのに最適だった。


「安心して、私たちは普通の人間だから」


 銭湯の様式を楽しむように畳んだ手拭いを頭に乗せた稲葉さんが、成長途中の胸に手を当てて言った。


「それに、ああいう奴らとは関わらない方が吉だからな」


 補足するように、鳴美さんがつぶやくと神羅さんも無言で頷いていた。


「あはは…なんか私、ちょっと疲れてたみたいです」


 いくら考えても答えに辿り着けないと感じると、私は考えるのをやめた。今回の出来事は、すべて疲労が見せた幻覚であると、私はこの湯に流すことにする。


「はぁ〜、銭湯っていいですね」


 肩まで浸かった私は、わずかに開いた口から息をそっと吐いた。隣には湯浅ちゃん、その向こうにはお得意様たちが目を垂らさせている。


 湯けむりのなか、横並びとなった私達は浴槽に身体をゆっくりと沈めた。

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【完結済】番台さん、幽世を知る。〜私はただ、彼女達の曲線に触れたかっただけ。〜 月雲とすず @tukigumots8

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