第三話

 垢や石鹸が混ざり合う排水溝から、ひそむカビや苔の匂いが鼻をつく大浴場に陳腐ちんぷな音が響く。


 湯をあびているはずなのに、ひやりとした感触が残る神羅さんの背中から手を離して私は立ち上がった。


「はーい!いま行きまーす!」


 その場の不穏な空気から逃れるように、脱衣所への磨りガラスの戸を引いて番台へと戻る。足ふきマットで足裏の水気を切って確認した音の正体は、番台に設置された従業員呼び出し用の呼び鈴だ。新しい客が来店したのかと思ったが、その場に人の気配は一切ない。


「あれ…誰も、いない?」


 妙に思い、ロッカーの影や体重計の設置場所、サウナの出入り口などを探してみるも静けさが増すばかりだった。ただの空耳だったのだろうか、先程の見間違えといい疲労が溜まっているのかもしれない。


「番台さん?急に飛び出して、なにかあったかい?」


「い、いえ…私の勘違いだったみたいです」


 心配そうに顔を出した鳴美さんに、接客用の作り笑いをした。胸のつかえが解消されないまま、彼女のお尻を追いかけようとした時だ。


チーン…


「…え?」


 誰もいないはずの脱衣所に、鋭い金音が水紋のごとく響きわたった。不意の耳鳴りに似た不快感に、私は棒立ちする。


「いま、呼び鈴が勝手に、鳴った…?」


 目立った風も吹いていないし、地震だって起きていない。にも関わらず、ひとりでに呼び鈴が鳴らされたのだ。今回は耳ではっきりと聞いてしまったため、気のせいで片付けられなくなった。


 漠然とした恐怖に苛まれた私は、肩をすぼませながら鳴海さん達が待つ浴場に戻ろうとする。しかし、不可解な現象はこれで終わることは無かった。


チーン…チーン…


 背筋の毛が逆立つのを体感した私は再び振り返る。今度は、呼び鈴が二回鳴ったのだ。相変わらず周囲には人をはじめとした生命体の息吹は無い。ただ、足元に鎮座した石油ストーブが、怒りに任せて熱を放射するのみである。


「やだ…なに…怖い」


 未知なる恐怖に狼狽し始めると、私は湯気で隠蔽いんぺいされた浴室へと逃げ込もうとした。湿気にまみれたタイルに足をつけようとした時、ぴしゃりと鈍い音が響く。目の前で重たい硝子の戸が、首を断ち切る勢いで締め切られたのだ。


 完全密室になった脱衣所に閉じ込められた私は、強固なバリケードと化したガラス戸をドンドンと叩く。


「え、なんで!?誰が閉めたの!?ねぇ、鳴美さん!!神羅さん!!」


 中にいるはずの彼女達にアピールするも声が返ってくることは無く、それどころか話し声も聞こえなくなってしまった。いや、聞こえなくなったというより、隠れてしまったというべきか。


 くぐもったシャワーの水音が、みるみる内に増殖し始めたのだ。夕立が訪れて、小雨が豪雨に成長するような…浴場のシャワーが一斉に開放されて何か破裂するような音が鳴り響くと、ガラスの内側で液体がせりあがっていた。


 排水溝が詰まって壊れたのだろう、行き場を失った熱湯が浴場に溜まり始めたのだ。押し寄せる津波にがたがたとレールを揺さぶるガラス戸に聞き耳を立てていると、ひどい眩暈めまいが私を襲った。


 停電したのか、脱衣所の電灯がすべて消えたのである。唐突な暗闇に目を慣らしていると、出入り口から肌を突き刺す冬風が侵入してきた。よく見ると、木製の引き戸に隙間ができ、のれんが風に揺られているのがわかる。それに伴い、ぺちゃくちゃと数人が駄弁る声が外から聞こえてくる。


「だ、だれ…?」


 おののいていた私が声帯を絞るが、返答はない。背中を逆撫でされるような感覚に見舞われながら、のれんの奥を凝視する。そして、私は目を極限まで剥いた。


 なんと風が吹いたのれんの影から、びちょ濡れの手拭いが積み上げられていたのだ。水を蓄えた布が北風にさらされて、重々しくそこに鎮座している。


 腹から引きずり出された内臓のように、ぞんざいに山となった手拭いに目を細める。すると、そいつは蟷螂かまきりの卵のようにもぞもぞと蠢いたあげく、てっぺんの手拭いが宙に浮遊しはじめたではないか。


 卵が孵化ふかしたのか、なにか歪んだ物体を包みながら手拭いは上昇していく。やがて、のれんが垂らされた位置で停止すると北風に吹かれた手拭いがのれんと共に揺れた。


 そして強めの風が吹くと、手拭いの奥が明らかになった。呼吸が荒くなった私の肺をちぎれるまで苦しめたのは、彫刻のごとく変に美麗な女性の顔面であった。

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