金魚少年

秋犬

金魚はそこにいるだけでいい

 六年生のときに同じクラスだった水原みずはら君は、取り立てて目立つ少年ではなかった。少し色が白くて声もそれほど大きくなく、友達も多くなかった。ただ、彼は生き物係を率先して引き受けていた。友人から話を聞くと、彼は毎年いつでも生き物係をしてきたそうだ。先生たちも「水原は他の係はやらないのか」と尋ねていたが、彼は頑なに生き物の世話をし続けていた。


 彼について特に思い出があるわけでもなかったが、ひとつだけどうしても忘れられないことがあった。あれは冬休みの直前で、日が極限まで短くなっていた頃だった。家に帰ってから、どうしても明日提出しないといけないプリントを学校に忘れてしまったのを思い出して、私は急いで学校へ戻った。放課後になってそれほど時間が経っていたわけではないのに、日はどんどん傾いてもう辺りに夜の気配が立ち始めていた。その気ぜわしさに、その日の授業で「十二月は師走しわすと言って、先生が走るほど忙しいんだぞ」と習ったことを私は思い出していた。


 早く帰りたかったので、上履きに履き替えるのも億劫で私は靴下のまま廊下を歩いた。誰も歩いていない廊下は冷たく、ますます私は早く帰りたいと思った。階段を上って自分の教室のある階につくと、先生がいないのをいいことに私は滑るように教室まで走った。そしてさっさとプリントを持って帰ろうと思って教室のドアを開けると、水原君が窓辺に座っていた。


 私はこんな遅くまで教室に誰か残っているとは思わず、心臓が飛び出るくらい驚いた。水原君はガラっと開いた扉の音を聞いて、こちらをゆっくり振り向いた。


「なんだ、真鍋まなべか。こんな時間にどうしたんだ?」


 私の登場に水原君は驚かず、私は自分の心臓がまだドキドキしていることが少し恥ずかしくなった。


「忘れ物を取りに来ただけだよ」

「そう」


 そう言って、水原君はまた窓辺の方に向き直った。水原君は窓の外を見ているのではなく、教室で飼っている金魚の水槽を見ていたのだった。


「水原君は何してるの」

「金魚見てる」


 それは見ればわかるよ、と思った。その金魚は担任の先生が「教室守」と呼んで可愛がっている金魚だった。そして生き物係に餌やりを任命して、時々一緒に水槽を洗っていた。


 水槽の中では真っ赤な金魚が一匹と、白がメインの赤い模様がある金魚が一匹、ゆっくりと尾びれを翻していた。エアポンプが吐き出す小さい泡を避けるように金魚はゆらゆらと泳いでた。クラスの皆からその金魚は特別可愛がられているわけではなかったと思うが、ただ金魚はそこにいるだけでよかったのだと今は思っている。


「金魚って、見て楽しい?」

「いや、別に」


 楽しくないんだ。それなのに、どうして水原君はこんな時間までずっと金魚を見ていたのか私は気になった。


「楽しくないなら帰れば?」

「そうだね。ありがとう」


 そう言って、水原君はランドセルを掴むといそいそと教室から出て行ってしまった。私は短い日が射し込んできた窓辺に近づいて、水槽を覗き込んだ。随分と大きくなった金魚は水槽の中をゆらゆらと漂っていて、射し込んで来た光は金魚の揺れる尾びれと小さな泡の間で弾けていた。


 私は呆然と金魚の水槽を覗き込んでいた。随分と大きくなった金魚にとって、この水槽は少し窮屈かもしれない。何度も何度も行ったり来たりを繰り返して、退屈しないのだろうか。そんなことを私は思った。


「あ、そうだ」


 開けっぱなしの扉から声がした。急に水原君が戻ってきたのだ。ぼんやり金魚を眺めていた私は、また驚いて教室の入り口に振り返った。


「帰るとき、カーテンしてね。あんまり直射日光当てるとよくないから」

「わ、わかった」


 慌てて返事をする私に、水原君は問いかけてきた。


「金魚見て楽しい?」

「ううん、別に」


 彼の言うとおり、別に楽しいものではなかった。


「だろう?」


 水原君は満足そうに笑って、そしていそいそと帰って行った。私は金魚の水槽と水原君の間に挟まれたような気分になった。それからすぐに思い出したように自分の机からプリントを取って、夢のような気持ちで家に帰った。


 それからすぐに冬休みに入り、三学期が始まった。卒業を控えた私たちは師走以上に気ぜわしくなり、私は金魚のことも水原君のことも思い出す暇がなくなった。中学に入ると同時に、水原君は別の学校に行くことになった。私の小学校は近くの中学校に全員持ち上がりのはずであったが、どうして水原君は違う中学に行くのか特に説明はなかった。親の仕事の都合とか、そういうのだろう。何となくそんなことを私は無責任に思っていた。


***


 それから随分時が経ち、私も中学生の子供を持つ親の立場になった。古くからの友人に会って話をしているうちに、水原君の話になった。彼女は水原君と高校で同級生だったらしく、様々なことを教えてくれた。そしてそれは、あまり面白い話でもなかった。


 久しぶりに会った水原君は、名字が変わっていたという。そして「小学校ぶりだね」と一度話をしたきり、水原君は学校にほとんど来なかったという。気がつけばクラスからいなくなっていて、一年の終わりには退学していたそうだ。


 友人は「そんな子いたけど、今頃どうしているかねえ」という感じで私に話してくれたが、私の心は一気にあの短くなった日の射し込む誰もいない教室に戻っていた。


 誰もいない教室で、面白くもない金魚を、何故水原君は見つめていたのか。


 大人になった今なら、どうして彼がそこにいたのか何となくわかった。金魚を眺めることよりも面白くないことがきっとあったのだろう。だから、先生に追い出されるギリギリまで教室で金魚を見て面白くないことから目を反らしていたんだろう。日の光を浴びてきらきら輝いていた金魚は、現実よりもきっととても面白かったんだと思う。


 そんなことを友人に話しても笑われるだけだと思ったので、私はすぐに別の話題を持ちかけて、水原君の話をこれ以上浮かび上がらせるのを阻止した。それは泡のように弾けて、その後は何事もなく私は友人と別れた。


 私は友人と別れた後、あの「教室守」の金魚を思い出していた。ただそこに漂うだけで、それだけでよかった金魚。身体が大きくなって少し窮屈になった水槽の中で一心に泳いでいた金魚。そしてその金魚と一緒に泡のように弾けた水原君のこと。


 そんなことを考えていると、スマホに夫から「何時に帰ってくるの」とメッセージが届いていた。それを見て、水原君は私の心の中で二度と取りに戻れない忘れ物になってしまったものだと思った。私は「今帰るところ」とだけ返信をした。


〈了〉

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