第5話・変わらない朝

朝の鐘は、少し間延びした音で鳴った。


 レイン・クローディアは、

 その音が二度目に反響する前に目を覚ました。

 目覚めは悪くない。

 寝不足でもないし、夢も見ていない。


 布団を畳み、顔を洗い、制服の上着を羽織る。


 鏡に映る自分を見て特に思うことはなかった。


 寮の廊下は、朝特有の匂いがする。

 乾いた石と、誰かが早くに使った湯の残り香。

 足音が重なり、挨拶とも独り言ともつかない声が行き交う。


 食堂はすでに半分ほど埋まっていた。


 「おはよう」

 「早いな」


 そんな短いやり取りを交わしながらレインはトレイを受け取る。


 朝食はいつもと同じ。

 温かい粥と少し固めのパン。

 甘味は控えめだ。


 向かいに座った学生が寝ぼけた顔でスプーンを動かしている。


 「昨日の算術、分かった?」

 「途中までは」

 「後で見せて」


 それだけの会話。


 食べ終えるとそれぞれが立ち上がり講義棟へ向かう。


 午前の最初は古文だった。


 教官は淡々と古い文献を読み上げ、そこに書かれている制度や用語の変遷を説明する。


 「この時代には、

 詠唱と記述の区別が曖昧でした」


 黒板に書かれる文字を写しながら、

 レインは特に深く考えずノートを埋めていく。


 難しい話ではない。

 覚えるだけだ。


 休み時間、廊下に出ると誰かがインク瓶を落とした音がした。


 「大丈夫か?」

 「うん。割れてない」


 拾い上げられた瓶は淡銀緑の光を反射している。


 Luness。

 一年生用の、いつものインク。


 「新しいの?」

 「昨日補充したやつ」

 「なら平気だな」


 そんなやり取りで終わる。


 次は物理だった。


 魔力と物質の相互作用についての基礎。

 図を見て、式を追って、理解した気になる。


 レインは線を引くのが少し遅い。

 だが間違えない。


 昼になると中庭に人が集まる。


 噴水の縁は相変わらず人気で空いている場所を探すのに少し時間がかかった。


 「来年から攻撃性だよな」

 「まだ先だろ」

 「でも二年って、すぐだぞ」


 そんな話を聞きながら、

 レインは黙ってパンをかじる。


 自分がどうするかはまだ、考えていなかった。


 午後は実習が一コマだけあった。

 起動はしない。

 描いて、提出して、確認を受ける。

 円環を描き、内部記号を配置し、起動印を確認する。


 教官は一瞥して言った。


 「問題ない」


 それだけだ。


 隣の学生は少し線が歪んでいて修正を指示されていた。


 それもよくある光景だ。


 授業が終わり廊下に出ると、上級生たちが集まって何かを話していた。


 内容までは聞こえない。

 聞こうとも思わなかった。


 夕方、風が吹き抜ける中庭を通り、レインは寮へ戻る。


 木々が揺れ、葉が擦れる音がする。


 「今日は涼しいな」


 それだけ思った。


 部屋に戻り、机に向かう。

 教本を開き、今日やった範囲をざっと復習する。


 円環の定義。

 記号配置。

 起動印の位置。


 知っている内容だが、読み飛ばさない。

 書いて、確認して、閉じる。


 灯りを落としベッドに横になる。


 今日一日を振り返っても特別な出来事はない。


 失敗もなければ誇れる成功もない。


 ただ授業を受け、描いて、片付けて、戻ってきただけだ。


 学院の生活はこういう日の積み重ねでできている。


 レインはそれを疑うことなく目を閉じた。


 明日も

 同じような朝が来る。

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円環の内側で魔術は完結する 石神慧斗 @Famtom7463

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