第1話・正しい円環の描き方
石板を叩く乾いた音が、教室に響いた。
「――よろしいですか。
ヴォカロス体系において、一つの魔術は一つの円環で完結します」
講壇に立つ老講師は、淡々とそう告げた。
感情はない。だが、声はよく通る。
「円環の外に描かれた記号は、いかなる意味も持ちません。
含まれないものは、処理されない。
これは基本中の基本です」
教室の中央に設置された実演台には、一枚のパペロが固定されている。
そこに描かれているのは、直径二十センチほどの円環と、いくつかの簡素な記号。
学生たちは、それを黙って書き写していた。
線幅、角度、接点の位置。
どれも教本通りだ。
ここには、才能も個性も入り込む余地はない。
「では、起動印」
講師は円環に接する小さな記号を、指し示した。
「魔術は、ここをなぞることで初めて発動します。
円環をなぞっても意味はありません。
内部記号をなぞっても、処理は開始されない」
そう言ってから、講師は一瞬だけ言葉を区切った。
「……なお」
学生の何人かが顔を上げる。
「開祖の言葉について、触れておきましょう」
教室の空気が、わずかに変わった。
講師は黒板に、短い一文を書いた。
――円環は、必ず閉じていなければならない
「これは、ヴォカロス体系の開祖が最期に遺した言葉です。
皆さんも、教本の巻末で目にしたことがあるでしょう」
ざわり、と小さなざわめきが走る。
「しかし」
講師はそこで、きっぱりと言った。
「この言葉は、技術的な指示ではありません」
黒板を叩く。
「円環は、定義上、閉じています。
閉じていないものは円環ではない。
以上です」
何人かの学生が、安堵したように頷いた。
「開祖の言葉は、歴史的資料としては重要です。
ですが、実習や試験で考慮する必要はありません」
そこで、講師は少しだけ声を落とした。
「むしろ、過剰に意味を見出そうとする方が危険です」
その一言で、話題は終わった。
講師は再び実演台に向き直り、
規定通りの魔力を指先に集める。
円環には触れない。
起動印だけを、なぞる。
次の瞬間、パペロの上で淡い光が広がり、
小さな光球が生成されて、数秒後に消えた。
成功だ。
誰もが、それを疑わなかった。
――ただ一人を除いて。
彼は、自分のノートに描いた円環を見つめていた。
線は閉じている。
寸分の狂いもない。
それでも、なぜか胸の奥に、引っかかるものがあった。
「閉じていなければならない」
それは当たり前のはずだ。
なのに、あの言葉は――
“確認”ではなく、“警告”のように聞こえた。
彼は、まだ知らない。
この学院で教えられている「正しさ」が、
どこまでを想定して作られたものなのかを。
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