異界入口にて──御器所善十郎の主張──

五月雨ジョニー

異界入口にて──御器所善十郎の主張──


──御器所善十郎ごきそ ぜんじゅうろうはその日、小さな子供を助けようとしたところで死んだ。


 それは大層晴れた、夏の日の事だった。


 渡ろうとした橋の上で、若く美しい婦人が、けたたましい虫の鳴き声すら切って裂く様に、悲痛に叫んでいたのだ。


 視線の先を追って見れば、下の川に子供が浮かんでいた。


 これはなんとわかりやすく、この橋から落ちてしまったのだろう。


 橋の上には他にも数人の大人が居たが、目を瞑り佇むばかりで、動き出すのは遅そうであった。


 なので善十郎は、夏の雨水をたっぷり含んだ激流で溺れ、もがき苦しむ子供の姿に頭を悩ませた後。


 もう一度、その子供の母であろう、叫ぶ婦人の容姿をしっかりと確認して、橋の上から川へ飛び込んだのだ。


 それから、時として十秒も有ったか無かったか。


 着水したはいいものの、着ていた服が水を吸った事により、善十郎は子供の顔すらまともに見れず、瞬く間に川底へと沈み、息を引き取った。


 善十郎は、まさかこんな事で死ぬとは思っていなかった。


 何故ならこれまでの人生で、とにかく善行に励み、ありとあらゆる徳を積んで来たというのに、この仕打ちはあんまりだと思っていた。


 その強い無念が奇跡を呼んだのか。


 死して肉体から抜け落ちた、善十郎の魂と呼ぶべき正体は、ある場所へと誘われる。


 それこそが現世うつしよ幽世かくりよを繋ぐ、異界入口いかいいりぐち


 異界審問官いかいしんもんかん『裁きの閻火えんか』が鎮座する。

 三道分岐之間みどうぶんきのまであった──



* * *



──善十郎が目を覚ました時。


 そこは古びた板の間で、色は朱と黒が交互に折られており、その床と同じ色の柱が高い天井を支えていた。


 善十郎にとって、こんなものは初めて見るもので、何やら極めて不気味な雰囲気に包まれるが、何故か不思議と彼の心は非常に安らかにあった。


 しかし、そこはどうにも薄暗い。


 視界には、左右均等に並んだ太い柱が、ずうっと先まで続き、まるでこちらへ来いと手招きするかの如く、道標となって連なっている。


 善十郎が目を凝らして、その先の先を見つめれば、何やら小さな灯りが見えたので。


 なるほど、これこそが死後の世界なのだろう。と素早く直感し、身を起こしてその灯りの方へ小さく歩を進めていった。


 立ち上がれば足元が暗い。

 灯りまでは遠そうだ。


 なので、善十郎は右手で火をつけて、自身の足元をよく見ながらゆっくりと進んで行く。


 結果として、これが良かった。

 何故なら板の間はところどころ穴が空いていて、それは小さなものから大きなものまで様々であった。


 きっと慌てて走ったりなんぞしていれば、簡単に足を掬われ、穴に落ちていたかもしれなかったのだ。


 胸を撫で下ろしつつ、善十郎はようやく灯りの場所へと近づいて、ふわりとその手の火を消した。


──すると。


 目の前に現れたのは、善十郎の背丈の何倍もある大椅子に座り、ふんぞり返った大男の姿であった。


 遠くから見えていた灯りは、その大男の横に焚かれた篝火で。


 左右ニ対に置かれたそれの火柱は相当に高く、天井を焦がすような怒涛の勢いをまざまざと見せつけてくる。


 善十郎はその光景に圧倒され、思わず息を呑んでしまうが、頭の中では冷静に、目前の大男の事をわかっていた。


 間違いなかった。

 これは誰もが一目見ればわかると思った。


 何せそれは、かの有名な地獄の番人。

 “閻魔大王えんまだいおう”の姿そのものであったからだ。


「おうおう。来たな男よ。“狭間之渡はざまのわたり”を落ちなかったところを見ると、お前は随分と勘が鋭い様だな」


 地鳴りと大差ない大男の低い声が、善十郎に重くのしかかる。


 その迫力と、大男の正体への確信をもってして、善十郎はその場で膝を降り、すぐに正座を組んで頭を下げた。


「とんでもございません。道中のあの穴からは何やら不穏な気配が致しましたので、自ら足元を照らし、避けて通りました。きっと現世での善行が、私を安全にここまで案内してくれたのでしょう」


 大男は善十郎の畏まった態度が気に入ったのか、蓄えた顎髭を満足げに撫でながら、鋭く尖った太い歯を見せる。


「そうかそうか。あの大穴は、罪人が送られる苦しみの極地。“獄界ごっかい”へと通ずる穴だ。足でも絡めようものなら即座に吸い込まれ、二度と這い上がってはこれなかっただろう。何人もがあれに落ち、簡単にはここまで来れん。お前の言う、善行の導きというのも納得がいく話だ」


 その真実を聞かされた善十郎は身震いした。


 足元を見ていなかったらどうなっていた事かを想像して戦慄した。


 けれど、現にそうなっていないのは、やはり生前の善行のおかげであると、善十郎はその自論に強度が増した気がして歓喜する。


「閻魔大王様。なんとありがたきお言葉。私の生前の名は御器所善十郎と申します。私はあなた様に会う事をずうっと望んでおりましたから。これは至極真っ当な仕打ちにございます」


「おうおう。何だ。お前は俺に会いたかったと言うのか。しかし、お前は何か勘違いをしているな、俺は“えんま”などと言う名ではない。俺は異界審問官“裁きの閻火”である。お前の生前の善行を洗い、この先の道へ送るのが俺の仕事だ。ここは三道分岐之間。その名の通り、楽界らっかい獄界ごっかい人界じんかいの三道を結ぶ分岐点だ」


「おっと、これはとんだ失礼を。大変申し訳ございません」


 善十郎は、素直に謝って見せた。


 深々と頭を下げて、なんであれば床に額まで擦って陳謝したが、閻火はまるで小さな羽虫をいやがる様に、分厚くて大きな手のひらを振る。


 どうやら閻火にとっては、名を間違えた事などは些細な事で、特に気に触る事では無い様子であった。


「いい、いい。現世において、お前らの足らん想像で生み出された俺の存在など、まるで興味がない。重要なのは常に一筋の真実である。人間共の身勝手な想像や創造は、俺の気になるところではないのだ。俺が裁くのは人の心なり。故に御器所善十郎。お前のその心が、邪な感情を持たぬ、嘘偽りのない誠であるのかが問題なのだ」


 それに対して、善十郎の理解はとても早く、すんなりと受け入れる事ができた。


 名前は違えども、その本質とくれば、良く知った閻魔大王の仕事そのままであったからだ。


 そして、今この時を、善十郎は本当に望んでいた。


 そういう理由が彼にはあったのだ。


「閻火様、私はあなた様の存在を信じてここまで来ました。何故なら、私の生前に見た大衆という者は、それはもう酷い有様で。恥ずかしげもなく不平不満を垂れ流しながら怠惰を極めており。善の心をまるで知りません。そんな奴らに自らの死後を想像させれば、自己に都合の良い異界へ簡単に旅立てると闇雲に信じておりました。その傲慢さたるや、まさに下衆。私はそれが気に食わず、決してその様には生きたくなかったのです。それ故に私は善の道を選び、人々に感謝される生き方を選び、死にました。ですからこうしてあなた様の足下に導かれ、正当な裁きを受けられる事こそ、私の本懐に等しい訳でございます」


 それを聞いた閻火は、また髭を撫でながらにやりと笑った。


「ほほう。では、お前はその大衆とは違い、死後に俺という裁きがある事を信じて、生前に善行を重ねていたというのだな? 面白い。他者の考えに流されず、自らの道を進むのは大変難しい事だ。善十郎よ。なかなかお前の話には確かな強度を見るぞ」


 ひざまずいた善十郎は、閻火の反応に確かな手応えを感じながらも、気を引き締めて顔を上げる。


「ご理解いただけまして嬉しい限りでございます。つきましては、どの様な手続きにて今後の私の道は決まるのでしょうか?」


「なに、簡単なものだ。そう緊張するな。生前に重ねたお前の善行とやらを俺に話せば良い。その次第では、全てが幸福に包まれる最上の異界。“楽界”にもいけよう。ただし、嘘をつくなよ。それは俺にばれてしまう」


 確かに簡単な事であった。

 それは現世での言い伝えと大差なかった。


 だが、善十郎の勘は、この土壇場において更に先を走る。


 ここで楽界への期待に当てられ、素直に喜び、飛び上がって気を緩めてしまえば、それは流石に失礼に映るだろう。


 この様な場合は抜かりなく、謙虚さを兼ねるとなお良いと、善十郎は強かに知っていたのである。


「かしこまりました。しかしながら、私とくればとても恥ずかしい事に、大変欲浅いものでして。この身分に楽界など畏多おそれおおく、望む結果としましては、その先で米がたらふく食えれば満足でございます。この身において、ひもじさほど不幸なものはございません。ですので、その旨何卒ご容赦お願い致します」


 もう一度頭を下げ、深々と跪いた善十郎の姿を、閻火は気持ち良く笑って見せた。


「何? 楽界を強く望む訳ではないと言うか。随分と謙虚でいいな。お前はどうやら切れ者だ。既に審問は始まっていると勘付いているのだろう。そうならば、生前からこの裁きを待っていたと言うお前の話も真実だろうな。自らの善行を信じ、この場に賭ける。そういう覚悟が滲んでおる。いいぞ、ならばこの先の結果において、お前をどこへ送ろうとも、米だけはたらふく食える様に約束してやろう」


──既に審問は始まっている。


 この言葉を聞き、善十郎に緊張の糸が張った。


 であれど、これは善十郎の勘のまま、やはり予想通りといったところであって、謙虚さを持ち出したのはあまりにも最善な判断だった。


 だがそれ故に、この先の話にも一切気を抜く事は許されないのだと善十郎はわかった。


「ありがとうございます。ありがとうございます。ただし善行とはいえ、その全ては私の真心より行った事でございます故、何も大したものではございませんで。閻火様にお気に召していただけるかは少々自信に欠けますが、その一切を隠す事なく、全てお伝えします事をお約束致します」


 つらつらと流暢に言葉を紡ぐが、善十郎の内心は怯えていた。


 この場において流石に嘘を吐く事は考えてもいなかったが、小狡こずるい機転も封じられ、既に終わった自身の人生の価値観と、真正面からぶつかる様で怖かった。


 それでも善十郎にとって、一つの確約を得られたのは何よりである。


 善十郎の中で、そんな事は万が一にもありやしないが、たとえ獄界に堕とされようとも、ひもじくはなる事だけは避けられたのだから。


 そして、その安心を担保に抱えて、善十郎は閻火に伝えた。


「では、お伝えしますと。生前に私は、財布等々の貴重な落とし物を拾い、持ち主に戻した事は数え切れません。また、重い荷を運ぶ老人に手を貸したり、人が嫌がるごみ拾いなんてのも、快く行いました」


 語りが始まると、閻火は目つきに力を加え、前のめりになった。


 善十郎は、大椅子から閻火の広い背が離れる音を聞く。


 それほどに、閻火は真剣に善十郎の話を聞いていた。


「更には、大人の男同士の争い事を解決した時もありました。なにがあろうと争いはいけません。争いとは人の心に巣食う悪い虫です。ですから私が仲裁に入り、即座にやめさせました」


 すると。

 閻火はうむうむ。といった具合に首を縦に振って、一度目をつぶる。


 善十郎の話を聞き、閻火は納得した様である。


 疑いや憤りとは程遠い、厳格な雰囲気ながらも柔軟な表情を見せ、閻火はその口を開いた。


「なるほどなるほど。お前は生前、確かに善行を重ねていた様だな。嘘を吐いている素振りもない、よし善十郎。俺はお前の話を信じよう」


 善十郎は、これは良かった。と思っていた。

 

 それに善十郎からすれば、この話は本当に嘘偽りはなく、自信があったものだから、この結果は至極当然の事であるとも感じていた。


 これだけ言えば、まずは獄界行きだけは避けられよう。


 後は、まだ見ぬ都合の良い異界へと転身するのか、それとも楽界まで手が届くのか……。


 そのくらいの些細な差を胸に案じて、善十郎は最後一押しとばかりに、もう一つ話を足したのだ。


「そして最後になりますが、善行の極め付けと言えば、私の死に様にございます。私は溺れた一人の子供を救う為に、この身を投じて川に飛び込み、死にました。その結末に未練があるとすれば、今でもあの子供を救えなかった事が胸に残ります。子供の母である美しい婦人が泣く姿は、あまりにも感情揺さぶられるものでございました」


 この話を最後に、善十郎はその場で涙すら流す気でいたが、どうやらそれも必要無さそうだと察する。


 閻火の表情をちらりと覗けば、結果は火を見るより明らかであったからだ。


 出会いの頃と打って変わり、実に朗らかな雰囲気を纏った閻火は、まるで別人の様であった。


「そうかそうか。死してなお、未練として他の者の命を気にかけるまでとは、お前はなんとも清い心を持っている様にも思える。素晴らしいぞ、善十郎」


「勿体無いお言葉。この身に余る思いでございます。私の善行とは、たかだかこの様なものですが、さて如何でしょうか?」


 善十郎は、確信していた。


 これでもう、間違いなく最上の楽界へ行けると信じて疑わなかった。


 まさしくこれは、前世の無念を晴らす形で身を結ぶ、大変素晴らしい結果であり。


 善十郎は、にやけ面を押し殺しながら、後は余裕で待つのみだ。


──そう思った矢先。


 閻火は何かきっかけを捉える様に、斜め上の天井を見つめると、またまた顎髭を撫でる。


 その後、その太い腕で腕組みをし、ぴくりと眉間に浅い皺を寄せた。


「……だがしかし、一つ気にかかる事があるな」


「それは、一体何でございましょうか?」


 その時。

 善十郎は、早く返事をした。


 それはたとえどんな疑問が来ようとも、そこにやましさは微塵もなく、快活に打ち返す気でいる事を、態度として見せつける為でもあった。


 善十郎の中では、既に勝負には勝っていると疑わなかったし、これだけは確かな事に、善十郎は今の話の中で、そもそも本当に嘘の一つも吐いていなかった。


 その為。

 決して最後まで嘘だけは吐かない。


 そういう正当さを善十郎は持ち合わせていた。


──のだが。


「子供を救おうとする時。お前は何故、“気術きじゅつ”を使わなかったのか」


 閻火がぽつりと放ったその問いは、善十郎の安定した調和を乱すのに十分過ぎた。


 たちまち口端をかたく引き攣らせて、焦った善十郎は、すぐに何かを言って返したかったが、それには少々時間がかかる。


 何せ、そこにおいての無意識での矛盾が、善十郎の中にも確実に存在していたからだ。


 と言うのも、この“気術”というのは、体に張り巡らせた気の力を使うものであり、鍛錬すれば、手のひらで火を起こしたり、皮膚を硬化させたり、はたまた背中から翼を出して空を滑空したり出来る術の事であった。


 善十郎の生まれ育った世界では、それを駆使して生活するのが一般であって、大衆の大半もそれを使える。


 なので無論、善十郎にもそれが出来たのである。


 ぽろりと落ちた不審の種を見逃さないかの様に、閻火は善十郎を問い詰めた。


「何も決死に川に身を投げずとも、お前は気術で翼を出せば良かっただろう。何故それをやらなかった? そして橋の上には、他にも気を練って構えていた大人共がいた筈だ。そいつらが子供を救うのを待てばよかったのではないか?」


 それに対し、善十郎に言い訳はあった。


 それでもすぐに言い訳を述べる事が出来ないのは、なんとはなしに、この確信した結果の影を、後ろから踏まれる気がしてならなかったからだ。


 自分の善の価値観を話せば、万が一、確信した結果が覆ってしまうかもしれない。


 そういう嫌な勘が、善十郎の中に渦巻いて言葉が出なかった。


 だからこの時、善十郎は残念ながら沈黙を選んでしまったのだ。


「まあいい……。問いを変えよう。ここまでのお前の善行は、俺の納得のいく素晴らしいものである。だが、もう一つ聞きたいのは、お前はその善行の後。感謝や見返りを大衆から貰ったのか?」


 閻火はそう言うと、大椅子に深く座り直した。


 答えを出せず、固まってしまった善十郎の姿に呆れたのか、閻火は鼻から荒い息を吐き出すと、肩の力を抜く。


 その態度には、不機嫌とまではいかないくらいの迫力を、じわりじわりと取り戻している様に見えた。


 善十郎は、額に汗を一筋伝わせていた。


 ここに来て嘘は吐けない。沈黙も使えない。

 なので、善十郎は苦虫を噛んだ顔をして、腹を括ったのだ。


「はい。大衆からの感謝は相当頂きました。助けた者は皆、最初のうちはとても喜び、私に頭を何度も下げました。それに対して私は、拾い物を届けた者にはそれの五割を、手を貸した老人には老人の持っていた土地の権利の半分を、ゴミ拾いではその汚れた村の村長へそれなりの駄賃を、それぞれ要求致しました。また、男の醜い争い事は、そんなもの言い分など聞かずとも両成敗に決まっております。武力をもってわからせた後、双方の嫁に唾をつけてやれば、二人とも争いはやめて大人しく家庭を案ずる様になりました。ですが、そういった見返りを頂戴した後の奴らときたら、手のひらを返して私をなじって来たのです。助けてやったというのにこれはいけません。ですから、大衆とは、善の気持ちを一切知らない愚か者なのです」


 善十郎は洗いざらい正直に話をした。


 けれど。

 閻火の目は、実に厳しかった。


「そうか、お前はそうやって、善の心に見返りを求めたのだな。お前はそういう奴だったのか」


 落胆した様に、目を細めた閻魔の顔を見るや否や。


 先までの確信はどこへやら、善十郎の額からは、どんどんと大粒の汗が滲み出てきて敵わない。


 まるで自身の揺るがない善の心が、こつんと小石をぶつけられて、張りぼてであると化かされた気分になった。


──それでも。


 私は間違っていない。

 間違っていない筈だ。


 そんな強さが頭をよぎり、善十郎は川へ飛び込んだ時と同じく、勢いを付けて思いの丈を閻火に白状した。

 

「閻火様、お言葉ですが。善行には感謝と対価が支払われるのは当然の事と信じております。私は人から感謝され、見返りを頂く為に善の道を進んでおりました。死に際のあの時ですらそうでございます。叫んでいた婦人は、なんとも豊満な美人妻でありました。だからこそ、私が気術に頼らず、いち早く溺れた子供を身を挺して救い出せば、あの婦人に善行の念を見せつける事が出来たものなのです。そして私はそのお礼に、あの人妻の身体を一晩頂くつもりでありました。これこそが善のあるべき姿。当然の形だと思うのです!」


 声を荒げ、手をばたつかせながら、善十郎は懸命に主張した。


 ただし善十郎は、咄嗟に口答えしてしまった緊張から、ごくりと一発喉を鳴らして、次に来る怒声を覚悟し、叱られる前の子供の如く目をぎゅっと閉じていた。


 対して閻火は、険しい顔のままゆっくりと目を瞑り、しばし悩んで思慮したかと思えば。


 善十郎の予想に反して、優しく囁く様に語りかけたのだ。


「ほう。そうか善十郎。いやいや、何も怯える事はない。お前の主張は分からないでも無いのだ。善が無償であるべきなどという考え方は、時に感謝を忘れた飽食の悪を呼ぶからな。そして確かに。気術で容易にこなせる事を、一刻を争う窮地のその時に、あえてその生身でして切り拓き、誰よりいち早く動いた事は決して悪くは無い」


 その優しい声に、善十郎は心底安堵した。


 やはり自分の善は間違っていなかったのだと、みるみる自信を取り戻した。


 一度干上がった池から水が沸いた様に、善十郎という魚は、また高く飛び跳ねて。


 気分良く、すらすらと言葉が溢れ出る様に回復した。


「ありがたき理解を頂戴し、感服でございます。そうです。そうなのです! 彼ら大衆は便利な気術に囚われ、それでも飽き足らず、まだ見ぬ異界へ想いを馳せながらのうのうと生きております。大衆の奴らときたら、何やら異界には、空飛ぶ鉄機があるとか、煙を吐く鉄馬がいるとか、更には不思議な小箱を使い、距離を無視して相手と会話が出来るなどとほざいております。無い物を無償でねだり、人の善意を踏みにじる。私はそれが到底気に食いません。我々人間は、もっと本能的に生きていく事が自然なのです。それが本来の善に繋がるのです!」


 閻火は目を瞑ったまま、うむうむと首を大きく縦に振っていた。

 

 それは善十郎の主張に深く共感し、寛大に理解する形に見えた。


「ふむふむ。その通りだ。無い物ねだりをして欲深くなれば、自然と心の美しさが欠ける。そういう美を持たない者は、とても愚かなものだ……」


──しかし。


「ただ、善十郎。それであってもお前には、決して言い訳の聞かない邪さがあるな」


 そう言って、閻火はぎろりと目を開く。


 その閻火の目は、かつて見た事もないほど血走っていて、この世の終わりの様におっかなかった。


 助かったと思いきや、またいきなり一転した状況に、善十郎は一瞬、悪夢でも見ているかと錯覚して頭が空っぽになると、遅れて全身の身の毛がよだち、瞬く間に口の水分を失った。


「な、なんと。それはどの様な事でしょうか?」


 善十郎は乾いた口をなんとか動かして、素早く理由を問いかけた。


 まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だ。

 話を聞けばまたわかって頂けるはずだ。と一所懸命に、善十郎は自身に言い聞かす。


 それほどまでに善十郎は、自らの善において、叱責される落ち度などはありはしないと信じきっていたのだ。


──その、善十郎の心へと。


 閻火はとどめの一矢を放った。


「お前が思う善行を重ねれば、この俺に気に入られようなどという。その浅はかな心が邪である」


 善十郎は、閻火の轟く声に飛び退いた。


 終わったと感じていた。

 こればかりは、言い訳も何も通じはしないとわかる。


 閻火の怒りを含んだ地響きにも等しい低い声が、心の幹をぎゅっと握りしめて、善十郎は言葉を出す余裕など全く無くなった。


「よく聞け善十郎よ。俺は愚かな大衆などでは無い。お前がいくら一方的な側面の綺麗事だけをほざき、俺に取り入り、望む結果という見返りを得ようとしても、そうはいかん。お前は俺を舐め過ぎた。それは、それだけは、絶対に赦せん事だ」


 閻火は、正に怒り心頭であった。

 その大きな口からは、ちりちりと火を吹いて、ぎらぎらとした鋭利な牙に反射した。


 頭髪は鉄線の様で、めらめらと逆立ち。

 髭は剣山の様に、ぎすぎすと張り詰める。


 鬼か悪魔か、それとも神か。


 そういった類いの、本来出会うことのない、人外然とした禍々しさを見せ付けながら、閻火は言葉を続けたのだ。


「ただし、お前は大罪人ではない。なので結論としては異界送りだ。だがその道は小虫に転身する、畜生道である。しかも異界とはいえ、お前に都合の良い、文明の成熟した異界ではない。それよりはるか昔の時系へと送ってやろう」


「む、虫に転身でございますか!? それは何とも無慈悲でございます! しかも、文明の成熟しない時系へと?! でしたら、そこには空飛ぶ鉄機も、煙を吐く鉄馬も、会話を出来る小箱すら、何もないという事ですか?!」


 善十郎は声を裏返らせ、体を震わせた。


 目の前の閻火がいくら恐ろしくとも、伝えられてしまった望まない結果に、酷く動揺せざるを得なかった。


「そうだ。お前は、自身の凝り固まった価値観のもと、自分の思う善行を振り翳し、無意識に人を苦しめた。ならば今度はお前自身が、その人間共の凝り固まった価値観にやられるべきなのだ。自らの行いで、無惨に嫌われる怖さを思い知るべきなのだ」


「そ、そんなぁ! 堪忍して下さい、堪忍して下さいぃ!」


 善十郎は何度も何度も、床に頭を擦り付けて、縮こまる。


 涙も涎も垂れ流し、必死に赦しだけを乞いながら、頭の中で何度も呟いた。


 おかしい。こんな事はおかしい。

 あんまりだ。この仕打ちはあんまりだ。


 私はただ、私の善を。

 当たり前の気持ちで持っていたまでなのに……。


「御器所善十郎。お前が言ったのだ、もっと人は本能的に生きるべきだと。なのにお前は小狡く誰かに取り入り、その心に漬け込もうとしたあまり。まるで芯を持たぬ取り繕ったのっぺらぼうになってしまった。大衆を嫌う前に、お前はお前の心の美を欠いたのだ。だからそれに相応しい、卑しい姿になるが良い」


 ばちんと閻火が指を打った瞬間。

 善十郎の座っていた床が抜け落ちた。


 暗い底から伸びた無数の腕に絡め取られた善十郎は、たちまち艶々とした小さく黒い虫の姿に成り変わり。


 人の頃に持っていた“勘の鋭さ”は、“感の鋭さ”へと変わって、なんとも不快に素早く動く体を手に入れた。


 それでも、閻火は決して無慈悲では無かった。

 善十郎との一つの約束を果たしたのだ。


 『米をたらふく食えれば満足です』


 優先されたのは、そう放った善十郎の謙虚な本心である。


 だから善十郎は、黒々とした小虫の姿になろうとも、転身した先で、米を食う事だけは出来たのだ。


──以降。


 その虫は、人の家屋に身を潜め、夜な夜な台所に現れると、御器と呼ばれる食器に頭を突っ込み、ひっそりと静かに、米の残りかすを貪ったという。


 その姿たるや、まるで卑しく御器に齧り着いている様であったので。


──またの名を“御器齧ごきかぶり”と。


 そう呼ばれ。

 彼は末長く、人々より忌み嫌われるようになったのだった──。

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