変異するDNA
◇
自分だけの蘭奢待を作りたいというミチカに、私は調香の手ほどきをした。黒い疑念を押し殺したまま。
すぐにミチカは私のラボに馴染んだ。香りの検体を提供してくれる見返りに、高価な香水の原料と化学合成に使用する機器を自由に使わせた。
彼女は原料棚の前に立ち、ラベルを指でなぞり、気まぐれに
彼女がラボにいるときは、香りの調合がうまく進む。
ところが彼女が帰ると、たちまち香りは崩壊する。
素材の配合比は合っている。温度も手順も間違っていない。それでも香りだけが、決定的なところで崩壊する。香りの芯がぼやけてしまう。
まるで、最後の
もはや科学というより、これは魔術か錬金術の範疇に思える。合理性の
いったい何が起こっているのか。私は頭を抱えた。
そうしたある日、ミチカは言った。
「ねえ、あたしの匂い、前より薄くなってきてない?」
冗談めかした口調だったが、私は答えられなかった。事実だったからだ。
代わりに、ラボの空気が変わっていく。
私が呼吸するたび、ビーカーの内部で香りが完成に近づく。
混ぜているのは同じ原料なのに、いつのまにか香りが仕上がりつつあった。
――これでいい。
そうつぶやいた瞬間、自分の声が少し遠く聞こえた。
肯定したのは本当に私自身だったのだろうか。
◇
香りの合成が進む一方、解析は行き詰まっていた。
ミチカの積極的なサンプル供与はあったものの、不可解な現象に悩まされたのだ。
科学者の
ガスクロマトグラフィーしかり、AIデータベースしかり。ところがガスクロを稼働させても、同定できる成分は既知のピークばかり。どれも決定打にならない。揮発性成分の組み合わせとしては、ミチカの香りはあまりに平凡すぎた。拾える特徴が何ひとつない。
母校の研究室で、より感度の高い装置を使わせてもらった日。香りのエキスパートである教授は、てのひらで私の肩口の空気をすくい取るようにして嗅ぎ、次いで首を傾げた。
「何もつけていないハズ、だよね?」
「ええ。私は調香師ですから」
常識でしょうと言わんばかりに答えた私に、教授は曖昧に笑った。
「なら、どこかで付着したのかな。アルカロイドの匂いがする」
その言葉が、遅れて効いた。
殴られたように頭の隅が痺れる。
――アルカロイド!
人間が体内でそれを生むなどという可能性を、私は疑う前に切り捨てていた。
アルカロイドは、植物が捕食者から身を守るために生み出す化学物質。神経に作用し、感覚を歪め、時にDNAの鎖まで破壊する。毒であり、時として抗がん剤にもなる、生物の進化の目に見えぬ暗器。
原因はわかった。
ではなぜ、ミチカがアルカロイドを放散しているか、だ。
◇
ラボでの調香と並行し、国会図書館で文献を洗い直すと、奇妙な符合を発見した。それはスキャンされていない古い調香記録。まだ匂いが化学式で表現される前の時代のものだ。
表紙は褪せ、背は乾燥してひび割れている。
処方の記述は粗い。
アンバーグリス、ラブダナム、動物性ムスク――多くは現代では代替品に置き換えられた素材ばかりだ。だが、配合比の横に、奇妙な注記があった。
”被験者来室後ヨリ、タチドコロニ香リ安定ス”
”本人不在時、香リノ再現
私は憑かれたようにページをめくる。
同じ記述が、別の年代、別の筆跡で繰り返されていた。
“素材提供者は若年であることが多い”
“継続的接触により、調香者側の感覚が補正される”
読み進めるうち、喉が乾いていく。
これは虚構じゃない。
歴史に沈殿し、知られることなく受け渡されてきた
最後のページに、短い走り書きがあった。
「香りは保存できない。だが、在り処は両者間で転移する」
――転移? どういうこと?
仮定を加えて読み解くならば、提供者と受容者の役割が、時間とともに移動するということだろうか。
◇
文献を裏付けるように、ミチカの身体からは以前ほど香りがしなくなっていた。
代わりに、私の呼気に微かな甘苦いミント臭が混じる。意識しなければ気づかない程度の、しかし確かな変化。
私は手を口に当てて、自分の息を嗅いだ。
「……やっぱり気づいちゃったか」
それを見たミチカは、責めるでもなく、ほっとしたように言った。
何を、とは尋ねなかった。
もう分かっていることだから。
無言でいる私を確認すると、彼女は言葉を重ねた。
「最近さ、あたしヘン。……嗅ぐと疲れるのよね」
それに私は理屈で返した。嗅覚の酷使は、必ず消耗を伴うものだ、と。加えてアルカロイドの慢性的曝露による神経順応の話もした。
「リケジョさん、解説ありがと。あなたの弱点はリクツで理解しようとするところかな?」
ミチカは両手を口の前に当て、フフっと含み笑いをもらして言った。
「ともかく次は、あなたの番ですから」
私はここも無言で応じた。
まったく意味が分からなかったから。
その日を境に、彼女は姿を現さなくなった。
◇
それでもラボは、かつてなく安定して「香り」を合成している。
もう分析装置を使う必要すらない。
合成しても保存できないことが実験で証明されたからだ。
私は理解した。
アルカロイドは、香りではなかった。
香りを成立させるための「必要条件」だったのだ。
提供者の体内で生成され、接触を通じて移行し、受容者の感覚を変容させる。
ある閾値を越えたとき、蓄積したストレスがDNA鎖をキックし、崩落的にDNA構造が変異する。
「あたしのことは忘れちゃっていいからね」
私の最期に、どこからか知らない少女の声が聞こえた。
◇
どれほど時間が経ったのだろう。
意識が戻ったとき、あたしは鏡の前に立っていた。
鏡に眼をやるが、像に焦点が合わない。
ピントが合わない原因――眼鏡を外し、無造作に床へ落とした。乾いたプラスチック音が転がってゆく。
香りは、体の内側で熟していた。
ミントの呼吸とともに、思考がとぎ澄まされていく。
誰も悪くない。もちろん、あたしが悪いわけでもない。
手に握りしめていた赤いポーチの底に、名刺が一枚あった。
知らない名前。調香師と書いてある。
あたしには不要なもの。破いて床に撒く。
さて。お次は、どの路を進もうか。
人が集まり、無自覚に香りを発散している場所がいい。
あるいは感受性の高い、若い器が大勢集う場所とか。
写真展のギャラリーなんてどうだろう。
そうだ、そこがいい。きっと静かで、都合がいい。
あたしはドアを閉め、外の空気を吸い込んだ。
アルカロイドの気配が、かすかに応答する。
完
ミチカ ~未知なる香りの少女~ 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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