私の調香ラボ

 「私の」調香室ラボは、外界から切り離された白い箱だ。


 明かり取りの窓はなく、温度と湿度は常に一定に保たれている。ここでの時間は時計で測られない。香りが立ち上がり、力を失い、消えていく速度が、そのまま時の単位となる。


 わざわざ「私の」と断り書きを入れたのは、こういう理由だ。

 現在の化粧品メーカーに勤めて五年。私が積み重ねてきた成果を評価され、会社は私専用の調香室ラボを用意してくれた。それは功績への褒美であると同時に、他社への機密漏洩を防ぐための措置でもあった。


 私は白衣の袖をまくり、ていねいに手首を洗った。皮膚に残る匂いはすべて雑音ノイズとなる。無臭に近づけば近づくほど、感覚は鋭敏に研ぎ澄まされていく。


 耐熱ガラスの100mlビーカーにエタノールを垂らす。透明な液体が、底で三日月の形に広がる。続けて、ベルガモットを一滴。立ち上がるのは、鋭く、すぐに消える瞬光フラッシュの如き香り。


 違う。


 ミチカの匂いには、こんなカドのある立ち上がりトップノートはない。


 私はウッディ系を重ねた。サンダルウッド(白檀)にシダーウッド・アトラス。深く落ち着くはずの香りが、予想以上に重く沈む。空気が、わずかに濁った。壁際のドラフトチェンバーの換気を強めて、室内の淀みを一掃する。


 ビーカーの中身を長方形の試香紙ムエットに染み込ませ、空中で軽く振って不要なアルコールを飛ばした。息を止めてから、もう一度嗅ぐ。

 鼻腔の奥、粘膜の最も敏感な部分で、微細な違和感を探る。香りは嗅覚だけのものじゃない。イメージとしては、鋭敏な人差し指の先で生地のテクスチャを探る感覚に近い。


 ノートに走り書きをしたところで、手が止まった。

 不意に、ミチカが笑ったときの、さざ波のような共鳴が脳裡によみがえる。


 ――これか。


 思いつきで合成ムスクを、駒込ピペットからビーカーの器壁きへきを伝わらせて落とす。一滴にも満たないごく微量。香りが、記憶のものへと近づいた。


 だが、まだ足りない。

 ミチカの匂いには生き物の温度があった。体温より、ほんのわずかに低い温度。爬虫類の体温程度の。


 私は迷った。次に加えるべきなのは、失敗作の引き出しに眠らせていた原料だ。感情への作用が強すぎるとして、封印した素材。


 私はそれを一瞬だけ嗅ぎ、目を閉じた。


 空中で香りが混ざり合う。秩序を失いながら、しかし確実に「少女」の香りに近づいていく。完成とは言えない。それでも、失敗とも断じきれない。


 迷いながらも私は試薬瓶を引き出しに戻した。間違った路を進んだ気がしたのだ。静かに息を吸う。

 そのときだった。


 ――コン、と、控えめな音がした。


 ドラフトの換気音に紛れるほど小さなノック。

 私は顔を上げる。


 ドアの向こうから、わずかに空気が揺れた。

 馴染みすぎた匂いが、意識より先にすべり込んでくる。


 ミチカだ。


 香りが肺の奥まで侵入し、脈が一拍、先走った。


 ◇


 ミチカが初めてラボを訪れたとき、彼女は一歩足を踏み入れるなり、ガラス製の実験器具を興味深そうに見回した。そして、少し間を置いてから言った。


 「調香師さんは、リケジョなんですね」

 「そう。私は典型的な理系女子。調香師の多くは、大学で化学を専攻しているの」

 「薬学じゃないんだ」

 「まったくいないわけじゃないけど、薬学系はだいたい製薬会社に行っちゃうかな」


 会話が途切れると、ミチカは手にしていた赤いポーチを実験台の上にそっと置いた。黒い耐薬品性のケムサーフ板の上で、その赤だけが妙に浮き上がって見える。


 彼女の視線は、やがてロータリーエバポレーターに吸い寄せられていった。装置は低い音を立てながら、緩やかに回転している。ナスのような形をした耐圧フラスコが温水に浸され、内部では減圧された液体が、低温のまま静かに沸騰を続けていた。


 フラスコは回転モーターに接続され、その上方からは螺旋状の冷却管が斜めに伸びている。蒸発した成分はそこで冷やされ、精製された液体となって別のフラスコに回収される。


 ミチカはその一連の動きを、まるで生き物ペットでも眺めるように見つめていた。

「あたしね、蘭奢待らんじゃたいが欲しかったの。蘭奢待って合成できるのかなぁ」

 彼女は小首をかしげた。

「織田信長じゃあるまいし」、私は噴き出した。彼女の言葉はいつだって唐突だ。「蘭奢待の香りは、もう分析されているわ」

「へえ、成分がわかっているってことは、自分で合成できるってことでしょ? 拙者も今日から蘭奢待オーナーになれる」

 古風な物言いで瞳をキラキラさせる少女に、私は可笑しさと同時に疑問を抱いた。


「拙者って、あなた幾つよ?」

 十代であることはわかっている。だが正確な年齢は、確認しておく必要があった。協力費を支払う以上、相手が成年か未成年かの違いは無視できない。

 軽い気持ちで問いかけたのだが、ミチカはその瞬間、わずかに身をこわばらせてから口を開いた。


「拙者、当年取って十万と十八歳の成人女性でござる」

「聖飢魔Ⅱか」

 ミチカのとぼけた受け答えに、私は思わず笑った。だけど、その反応とは裏腹に、頭の中では別の計算が始まっていた。――この少女、何かを隠しているのではないか。


 考えられるのは、情報収集を目的とした接触だ。他社の人間とは限らない。社内にも、私の研究内容や調香プロセスに不自然な関心を示す者は少なくない。調香師は熾烈な競争社会に生きているのだ。

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