エピローグ おつりの手順

エピローグ おつりの手順

 曇り。

 透は曇りが好きだ。眩しくない。反射しない。世界が少しだけ静かになる。

 駅前の角に、小さなタバコ屋がある。

 窓口のガラスは少し曇っていて、冬の湯気が薄く残っている。

「すみません、おつり……」

 米子ばあさんが困った顔をしていた。

 スーツ姿のサラリーマンが、万札を出している。

 タバコ一箱。たぶん六百円とか、そんな世界。

「今、千円札が切らしててねぇ……」

「えー、困ったな……」

 透の頭の中に手順が並ぶ。

 困ってる。おつりがない。時間が止まってる。

(やる)

 透は路地に入らなかった。

 成長したからではない。

 ここで金ぴかになったら、目立って終わる。――学んだだけだ。

 透はコートの内側に指を入れる。

 右上内側。小銭袋の少し上。自分だけが分かる位置。

 そして、そっと押す。

 カサカサ。

 紙の感触が、指に当たった。

 枚数が分かる。九枚。千円札が九枚。

(足りない分だけ。……正しい)

 透は出す前に、一回だけ確認する。

 癖だ。大事な癖だ。

 顔を背けて、札を鼻先に近づける。

(……匂い、セーフ)

 自分で何をしているのか分からない。

 でも、ここで変な匂いがしたら、渡せない。渡したくない。

 透の世界の正義は、妙なところで潔癖だ。

 透は窓口の下に、札をそっと滑り込ませた。

 米子ばあさんにだけ分かる角度で。

「……これ」

「え?」

 米子ばあさんが見て、目を丸くして、それから、いつもの顔になる。

「……ありがとうな、透」

 透は固まった。

「えっ」

「えっじゃない。顔は見えんでも、手順が同じや」

 サラリーマンは、おつりを受け取って深く頭を下げた。

「助かりました!ありがとうございます!」

 透はもう一歩だけ後ろに下がって、帽子のつばを下げた。

 米子ばあさんが小さく言う。

「ほら、行き」

「……うん」

 透は歩き出した。

 飛べないから歩く。

 でも今日は、それで十分だった。

(次。二丁目三番地。犬の家。角を曲がる)

 変わらない。

 少しだけ、上手くなっただけ。

 曇り空の下で、街はまた動き出す。

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スーパー金持ちマン @virago7

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