第8話 次の手順
第8話 次の手順
第1章 朝の紙の匂い
第1節 いつも通り
朝は、紙の匂いから始まる。
透は束の角を揃え、輪ゴムを二回。指先で枚数を確かめる。
定型は落ち着く。
落ち着くのに、今日は落ち着かない。
店やっさんがやけに静かだった。
新聞を縛る手つきはいつも通りなのに、咳払いの回数だけが増えている。
「……店やっさん」
「なんだ」
「……喉」
「うるせぇ。乾燥だ」
嘘だと分かる。
透はそれ以上言わない。言葉の手順がない話題は、無理に触らない。
第2節 店の空気
配達店の奥には、いつも通りの生活音がある。
湯沸かしポット、古い時計、輪ゴムの箱。
でも今日は、そこにひとつ増えていた。
小さな紙袋。中身が見えないのに、やけに丁寧に置かれている。
透は目で聞く。
店やっさんは見ないふりをして言った。
「触んな。爆発する」
「爆弾?」
「気持ちがな」
透は一瞬止まった。
それから、短く言う。
「……榊原さん」
「言うな」
「……榊原さん」
「言うなって!」
店やっさんが、珍しく声を荒げた。
透は「言い過ぎた」と理解した。
「……ごめん」
「……いい。お前が悪いわけじゃねぇ」
店やっさんは咳払いして、新聞束を持ち上げた。
「ほら、行け。定型に戻れ」
「……うん」
透は配達バッグを背負った。
今日の曇りは薄い。太陽が出そうで出ない。
それが、なんだか落ち着かなかった。
第3節 噂は町を走る
配達先で、米子ばあさんがニヤニヤしていた。
いつものタバコ屋の角。透は新聞をポストに入れ終える前に、視線を感じた。
「透ぉ」
「……なに」
「店やっさん、今日なぁ」
透は「聞かない方がいい」と思った。
でも、言葉がもう出てしまう。
「……今日」
「そ。今日。ええことがある日や」
米子ばあさんは指で曇り空を示した。
「曇りやろ。節目や」
「……」
「お前の節目もな」
透は返せない。
節目、という言葉は、透の中で重い。
透は短く頷いて、次の家へ向かった。
定型に戻るために、歩幅を揃える。
第4節 透の準備
配達が終わる。
透は帰って、店の奥の床に座った。
段ボールが二つある。
透の物。少ない。増やさないと決めてきた。
「……独り立ち」
透は口に出して、言葉の形を確かめた。
店やっさんが奥から出てくる。
紙袋を抱えている。
「透」
「……なに」
「今日はな……お前、夜、出てけ」
「……追い出し?」
「違ぇ!」
店やっさんは目を逸らし、言い直す。
「……家、空けろ。俺の用事だ」
「……榊原さん」
「言うなって言ってんだろ!」
透は頷いた。
頷くしかない。
でも、胸の奥が少しだけ温かい。
(店やっさん、次の手順に入った)
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第2章 ロマンスは手順が難しい
第1節 「ちょっと待って」
夜。店の前。
榊原澄子が来た。細身で、静かな歩き方。
店やっさんは店先で固まった。
五十歳のくせに、二十二歳みたいな固まり方をした。
「……」
「こんばんは」
「……お、おう」
澄子は、笑った。
笑い方が、透の知っている“安心”の笑い方だった。
「ちょっと待って」
澄子が言って、店やっさんの胸元の襟を直す。
それだけで店やっさんは息が止まる。
「お前さ」
店やっさんが言う。
「そういうの、やめろ。心臓に悪い」
「備えが足りないんじゃない?」
「俺は備えてる。新聞は切らさない」
「ロマンスの備えじゃない」
店やっさんが咳払いをした。
ロマンスという単語に耐性がない。
第2節 紙袋の正体
店やっさんは紙袋を差し出した。
差し出し方が、借用書を渡すみたいだった。
「……これ」
「なに?」
「……指輪、じゃない」
「じゃないの?」
「指輪みたいなもんだ。……いや、指輪じゃない」
澄子が覗く。
中身は、妙に実用的なものだった。
小さな救急箱。
絆創膏、消毒スプレー、ガーゼ、包帯。
そして、手書きのメモ。
『転ぶ前に備える。転んだら一緒に直す』
澄子は黙って、ふっと笑った。
その笑いは、からかいじゃなくて、受け取る笑いだった。
「……あなたらしいね」
「透がな。いつも怪我するんだよ。……俺もする」
「うん」
「だから、備える」
「うん」
店やっさんはそこで止まった。
言葉の次がない。
澄子は待った。
待てる人の沈黙。
第3節 雑なプロポーズ
店やっさんは、苦しそうに笑った。
「なあ」
「なに?」
「透が独り立ちする。……するんだよ」
「うん」
「俺、暇になる。……怖い」
「うん」
澄子が言う。
「じゃあ、次の手順を作ろう」
「……次の手順?」
「家族が減った日の手順」
「……」
「一人でやらない手順」
店やっさんは、深く息を吸って、吐いた。
そして、短く言った。
「……結婚するか」
「うん」
「え」
「うん、って言った」
「……は?」
「聞こえたよ。あなた、ちゃんと聞き返した。えらい」
店やっさんは顔を真っ赤にして、咳払いした。
「……俺の人生、まだ動くんだな」
「動くよ。曇りの日に」
曇り空の下で、店やっさんは笑った。
その笑い方は、透が子どもの頃に見たことがない笑い方だった。
第4節 透の「見ない」
透はその夜、少し離れた公園で座っていた。
わざと、見ない。聞かない。
でも、遠くの店の灯りは見える。
透は定型で自分を落ち着かせる。
(次、段ボール。次、荷物。次、鍵。次、挨拶)
スマホが震えた。
真弓からだった。
透くん
今日は、ありがとうの続きを言いたい日だった。
でも、店やっさんの日だね。
透くんの未来は、きっと明るい。曇りでも。
透は画面を見たまま固まる。
返事の手順がない。
でも、今日は手順を作ってみる。
短く、でも逃げずに。
うん。ありがとう。
生きる。
送信して、透は息を吐いた。
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第3章 独り立ちは、静かに
第1節 朝の挨拶
翌朝。
店の奥から、澄子の声がした。
「おはようございます」
店やっさんの声もする。
「……おう」
声が妙に小さい。
透は靴を揃え、頭を下げた。
「……おはよう」
澄子が透を見て、柔らかく笑った。
「おはよう、透くん」
その呼び方が、透には少しだけくすぐったい。
店やっさんが咳払いして言う。
「透。……お前、今日、出る」
「……うん」
「金ぴか、置いてけ」
「……無理」
「だよな」
澄子が言う。
「忘れ物ない?」
透は即答する。
「……ある」
「なに?」
「……手順」
店やっさんが鼻で笑った。
「持ってけ。お前の手順は、お前のもんだ」
第2節 鍵と段ボール
透の荷物は少ない。
段ボール二つ。眼鏡ケース。勉強道具。
そして、金ぴかのスーツ。畳み方だけは異常に丁寧。
店やっさんが鍵を差し出した。
店の鍵じゃない。新しい部屋の鍵だ。
「……借りる」
「借りねぇ。やる」
「……返す」
「返すな。返すなら、生きて返せ」
透は頷いた。
その言葉は、透の中で定型になる。
第3節 最後の小言
店やっさんは、透の眼鏡を指で軽く叩いた。
「目、悪いんだから前見ろ」
「……見てる」
「見てねぇんだよ。お前は“遠く”見てんだよ」
「……」
「近くも見ろ。幸せとか」
透は返せない。
でも、返さない代わりに一歩前へ出て、短く言った。
「……育ててくれて、ありがとう」
店やっさんの顔が崩れた。
「今さら言うな」
「……今だから」
「……ちっ」
澄子が、店やっさんの背中に手を置いた。
それだけで店やっさんは踏ん張れた。
第4節 旅立ち
透は段ボールを持ち上げた。
重くない。
でも、胸は重い。
曇り空。
節目の日だ。
透は店やっさんと澄子を見て、頭を下げた。
「……行ってくる」
店やっさんが言う。
「行け。……帰ってこい」
澄子が言う。
「いつでも、帰っておいで」
透は頷いて、歩き出した。
飛べないから、歩く。
でも今日は、歩くだけで十分だった。
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第4章 結婚は、日常にする
第1節 派手じゃなくていい
店やっさんの結婚式は、派手じゃない。
店の常連と、近所と、ほんの少しの親族。
米子ばあさんが言う。
「よぉやったなぁ。五十でロマンスか」
「うるせぇ」
「照れるな照れるな。曇りで良かったなぁ」
「曇り関係ねぇ!」
澄子は笑っている。
笑って、店やっさんの袖をちょん、と引く。
「手順、忘れないで」
「……分かってる」
第2節 指輪の代わり
澄子が小さな箱を出した。
店やっさんは緊張する。
指輪かと思って固まる。
中身は、指輪じゃない。
透がよく使っていた輪ゴムの箱に、リボンがかかっていた。
「新聞屋さんの指輪」
澄子が言う。
店やっさんは笑って、目を擦った。
「……そういうの、ずるい」
「備えです」
第3節 呼び名
最後に、澄子が店やっさんに言う。
「ねえ、なんて呼べばいい?」
店やっさんが固まる。
「……好きにしろ」
「じゃあ、やっさん」
「は?」
「透くんがそう呼ぶから。私もそう呼ぶ」
「……外で言うな」
「言うよ。夫だもん」
店やっさんが負けた顔をした。
負けた顔で、嬉しそうだった。
第4節 曇りの締め
式が終わって、空は相変わらず曇りだった。
でも店の灯りは、昨日より少しだけあたたかい。
店やっさんは空を見上げて、言った。
「……透、ちゃんとやれよ」
澄子が隣で頷く。
「大丈夫。手順は、あなたが渡した」
曇りの下で、二人は店へ戻った。
次の朝も、紙の匂いがする。
生活は続く。
だから、物語も続く。
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