第5話 ぶっ転び、ちょっと待って

第5話 ぶっ転び、ちょっと待って

第1章 毎日地球新聞配達店の前で

第1節 曇りの午前

 曇り。

 星野弥彦――通称、店やっさんは曇りが好きだ。店のガラスに余計な反射が出ない。新聞の文字も読みやすい。何より、変な“イベント”が起きにくい。

 ……起きにくいはずだった。

「透! 輪ゴムは二回だって言ってんだろ!」

 返事はない。

 弥彦は顔を上げて気づく。

「……あいつ、もう出たか」

 透は配達に出ていた。定型が始まると、戻ってこない。

 弥彦は新聞束の角を揃えながら、店先の舗道の段差を見た。

(あの段差、何とかしねぇとな)

 そう思っていた。思っていたのに、油断していた。

第2節 ぶっ転び

 そのときだった。

 店の前を通りかかった誰かが、段差に靴先を引っかけた。

 ――ぶっ転び。

 見事に。

 躊躇いなく。

 しかも無駄に美しい軌道で。

「……っ」

 弥彦は反射で一歩踏み出しかけて――止まった。

(女の人だ)

 そう認識した瞬間、身体が固まる。

 女性が苦手だ。相手が困っていると分かっているのに、先に“自分のぎこちなさ”が喉に詰まる。

 倒れた人が顔を上げる。

 ――とんでもなく綺麗だった。

 細身。背筋。輪郭。

 遠目でも分かる、というより、距離があるからこそ刺さる綺麗さだった。

 弥彦は息が止まった。

(……困った)

 次の瞬間、膝のあたりに赤が見えた。

 擦りむいた血。ほんの少し。

 弥彦は硬直のまま、店の奥に向かって声を出す。

「透――!」

 返事はない。

 そうだ。透は配達に出てる。定型の世界に行ってる。

(いねぇ……)

 弥彦は一瞬だけ、逃げ道を探した。

 誰か他の大人。近所。通行人。

 でも、時間は待ってくれない。

 弥彦は一大決心した。

(……俺が行く)

 息を吐いて、足を動かして、ようやく駆け寄る。

「だ、大丈夫ですか!?」

 声が裏返りそうになるのを、喉の奥で押さえた。

 女性は地面に手をついたまま、すっと顔を上げた。

 目が強い。“大丈夫じゃないけど大丈夫と言い切る人の目”。

「……大丈夫です」

「大丈夫じゃねぇだろ! 膝!」

「膝より、恥ずかしいです」

 弥彦は、そこでようやく呼吸を思い出した。

第3節 透がいない

 弥彦は膝を覗き込んで、すぐに困った。

(手順がねぇ)

 透ならある。

 怪我の確認、清潔な布、押さえる、消毒、絆創膏。

 透は言葉が短いけど、手順だけは完璧だ。

 弥彦はまた店の奥を見た。

 透はいない。分かってる。分かってるのに、つい探す。

「……立てますか」

「立てます。……たぶん」

「たぶんって言うな」

 女性は笑いそうになって、やめた。

 笑うと痛いらしい。

(やべぇ。俺、女の人相手だと余計にバカになる)

第4節 ちょっと待って

「ちょっと待って」

 女性が言った。

 その一言で、場の空気が整った。

 女性は自分のバッグを開け、ためらいなく取り出す。

 消毒スプレー。

 絆創膏。

 小さなガーゼ。

「なんでそんなものを……」

「転ぶからです」

「いや、転ぶにしても、準備が良すぎるだろ」

「転ぶ前提で生きてます」

 綺麗なのに、言うことが妙に現実的だ。

 弥彦はそこで初めて、変な緊張がほどけた。

(この人、見た目だけの人じゃねぇ)


第2章 名前と看板と、段差

第1節 処置は手順

 女性は自分の膝を自分で処置しながら言った。

「新聞屋さんって、すごいですね」

「何が」

「毎日、同じ時間に、同じ順番で。町を止めない」

 弥彦は鼻で笑う。

「止めないだけだ。偉くない」

「止めないのが偉いんです」

 言葉がまっすぐで困る。

 弥彦は話題を逸らすみたいに聞いた。

「……名前」

「榊原 澄子(さかきばら すみこ)です」

「……榊原さん」

 “澄子”という名前が、曇り空に合う気がした。

第2節 毎日地球新聞配達店

 澄子は店の看板を見上げた。

「毎日地球新聞配達店……」

「笑うな」

「笑ってないです。……でも、すごい名前」

「デイリープラネットの……」

「分かります。分かるから余計に良いですね」

 弥彦はそこでまた固まった。

(話が通じる)

 話が通じる女の人は、危ない。

 心が動く。

第3節 また転ぶ

 処置が終わり、澄子が立ち上がる。

「ありがとうございました」

「いや、俺、何もしてねぇ」

「そこにいてくれました」

 そう言って、澄子は一歩踏み出し――

 ――ぶっ転び(二回目)。

「なんでだよ!」

「段差が、私を狙ってます」

「段差に謝れ!」

 澄子が笑う。

 弥彦は笑いながら頭を抱えた。

(……だめだ。これ、放っておけないタイプだ)

第4節 弥彦の名乗り

 澄子が膝を押さえつつ、少し真面目な顔で言った。

「みんな、あなたのこと“店やっさん”って呼んでますよね」

「店にいつも居るからな」

「本名は?」

「……星野弥彦」

「弥彦さん」

「やめろ。照れる」

「じゃあ、やっさん」

「もっと照れるわ!」

 澄子は、その照れ方を見て目を細めた。

 まるで、最初から答えを知っていたみたいに。


第3章 透の話

第1節 高校生で店を継いだ

 澄子がふと、声を落とした。

「……ずっと一人でやってきた顔ですね」

 弥彦の手が止まる。

 笑って誤魔化せないところを、まっすぐ突かれた気がした。

「顔で分かるのかよ」

「分かります。私、転ぶので、人の支えに敏感なんです」

 弥彦は短く笑ってから、ぽつりと言った。

「高校の時にな。親が事故で死んだ」

 澄子は驚かない。逃げない。

 ただ、息を一つ丁寧に吐いた。

「……ごめんなさい」

「謝るな。事故だ。……そんで店、継いだ」

「高校生で?」

「そう。慣れない仕事で、毎日が終わらなかった」

 弥彦は指先を見た。

 インクが染みた指。紙で出来た生活。

第2節 二十二歳の曇りの日

「透くんは……」

 澄子が言うと、弥彦は鼻で笑った。

「二十二の曇りの日だ。店先に段ボール。赤ん坊。着替え。

 ……あいつと、金ぴかのスーツも一緒に捨てられてた」

 澄子の目が揺れた。

 怒りじゃない。痛みだ。

「育てるって決めた」

「……すぐ決めたんですか」

「決めたっつーか……見つけちまったら、戻れねぇだろ」

 弥彦は照れ隠しみたいに言う。

 でも、その言葉の奥には覚悟がある。

第3節 失敗ばかりの育児

「失敗ばっかだ」

 弥彦は、笑ってるのに目が笑っていなかった。

「ミルク作るの間違える。熱すぎる。冷たすぎる。

 夜泣きで近所に謝り倒す。

 抱っこで腕が死ぬ。

 仕事は終わらねぇ。睡眠は消える。人生も消える」

 澄子が、ふっと笑った。

 笑っていい話じゃないのに、そこに“愛”があるから笑える。

「……それでも、育てたんですね」

「育てたっていうか……育てられた。俺が」

 弥彦はそこで、咳払いをした。

 感情が出そうになると、いつも咳払いで止める。

第4節 額の傷

 弥彦は、決定的な失敗を思い出したみたいに息を吐いた。

「透の額の傷、あるだろ」

「ありますね」

「俺が付けた」

 澄子が一瞬だけ息を止める。

 弥彦は急いで続けた。

「自転車の練習させてた。

 “転んでもいい、覚えろ”って思って……

 角度、見誤って、縁石で――」

 声が小さくなる。

「あいつ、泣かなかった。

 泣かないで、ただ俺見て……

 俺が泣いた」

 澄子は急がせなかった。

 ただ、弥彦の指先を見て、静かに言った。

「その傷は、やっさんの“守ろうとした証拠”でもあります」

「言い訳すんな」

「言い訳じゃないです。……私は、そう受け取ります」

 弥彦は顔をしかめた。

 泣きそうな顔を、怒ってるふりで隠す。


第4章 恋にも手順がいる

第1節 紙袋

 その夜。

 弥彦は店の奥で紙袋を一つ用意した。

 中身は指輪じゃない。

 救急箱。絆創膏。消毒。ガーゼ。包帯。

 そして手書きのメモ。

『転ぶ前に備える。転んだら一緒に直す』

「……俺、何やってんだ」

 弥彦は自分に突っ込む。

 でも、やめない。

 透の時もそうだった。

 “やめない”だけが、弥彦の取り柄だった。

第2節 曇りの再会

 翌日も曇りだった。

 澄子は、また店の前を通った。

 まるで段差に会いに来たみたいに。

 弥彦は店先に出る。紙袋を抱えて。

「……榊原さん」

「こんにちは」

「……これ」

「なに?」

「……備えだ」

 澄子が袋を覗き、受け取った瞬間、顔が柔らかく崩れた。

「……あなた、優しいですね」

「うるせぇ。転ぶからだ」

「転ばなければ?」

「転んでもいい。……その方が、俺が助けられる」

 言ってから弥彦は真っ赤になった。

(何言ってんだ俺)

第3節 ドストライク

 澄子が、少しだけ間を置いて言った。

「私、あなたが……好きです」

「は?」

「ドストライクです」

「言い方が野球だな!」

「野球は分からないです」

「じゃあ言うな!」

 澄子は笑う。

 弥彦は、もう逃げられないと思った。

(……やばい)

 でも同時に思った。

(……この人なら、失敗だらけの話を笑って受け取る)

第4節 透の帰還

 夕方。透が配達から戻ってきた。

 店先に二人が立っているのを見て、透は一瞬止まる。

 情報が多いと止まる。

 でも止まったあとに整理する。

「……榊原さん」

「こんにちは、透くん」

「……転んだ?」

「転びました」

「……備えた?」

「備えました」

「……よし」

 弥彦が叫ぶ。

「よしじゃねぇ! 何を判定してんだ!」

 透は真顔で言う。

「……手順ができてる」

「だからそれが腹立つんだよ!」

 澄子が静かに笑った。

「透くん。やっさん、可愛いですね」

 弥彦が咳き込む。

「誰が可愛いだ!」

 透が短く言う。

「……店やっさんは、いい男」

「言うな!」

「……でも、事実」

「事実でも言うな!!」

 曇り空の下、配達店の前で笑いが起きた。

 弥彦は思った。

(……これが節目ってやつか)


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