第5話 鍵を返す
鍵を返すべきだと思ったのは、明確な決断ではなかった。決断というより、ある日、鍵の重さが手に馴染まなくなった。それは物理的な重さではない。持っていることが、僕の生活の中で異物になり始めた。異物は、放っておくと痛みになる。
僕は鍵を持って扉の前に立った。扉は相変わらず閉じている。閉じていることが世界の一部になっているようだった。僕は鍵を見下ろし、鍵穴を見た。鍵を差し込むことはしなかった。その代わり、鍵を扉の前の床に置いた。
誰に返したのか、という問いはその時点で成立しなかった。僕はただ、持っていたものをそこに置いた。置いたことで、それが僕のものではなくなった。そういう移動が、返すということなのかもしれない。
背後で足音がしたが、振り返らなかった。振り返ると、誰かがそこにいることが確定してしまう。確定することは、今は避けたかった。
僕は城を出て、街を歩いた。平和は続いていた。人々は笑い、露店は賑わい、音楽は鳴っていた。扉は開かれないまま、鍵は床に置かれたまま、世界は続く。続くことが救いなのかどうかはわからない。
夜、部屋に戻り、机の上を見た。鍵がないことで、机は少し広く見えた。広く見えることが、空白を意味するのか、自由を意味するのかはわからなかった。わからないまま、僕はランプを消した。
扉は開かなかった。誰も開けろと言わなかった。誰も開けるなとも言わなかった。勇者の手紙は短いまま、理由も書かれないままだった。僕は戦っていない。戦っていない者の生活は、勝利のあとも続いていく。
世界は続く。続くという言葉は、終わりよりも曖昧だった。僕はその曖昧さを抱えたまま眠った。
次の更新予定
勇者がいなくなった世界で、鍵を預かる男 nco @nco01230
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。勇者がいなくなった世界で、鍵を預かる男の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます