とんがらし地蔵

小海倫

とんがらし地蔵

 お父さん、あなたは私を殺しましたね?

 私と、私の母を殺しましたね?


 あなたの名前は山南敬助。

 そう、あなたは新選組の副長にまで上り詰めた──あの「山南敬助」です。


 貴方が私の母と出会ったのは二十歳の頃。


 平戸ひらど藩・江戸屋敷勤めの下級武士のあなたは、屋敷の近くにある料亭で、小さな宴会が開かれた時に若い芸者だった私の母と知り合った。

 酒に弱かった貴方を私の母が介抱した事がきっかけでした。


 若くて純情だった貴方と、芸者に成り立てで少女同然の母は、たちまち恋に落ち、母の腹に私が宿り、生まれた。


 けれども貴方の父──私にとって祖父にあたる山南茂次右衛門やまなみもじえもんは、貴方と母が夫婦になる事に反対した。


 それはそうです。


 祖父は、学問も剣の腕も優秀だった息子を、何より出世させたかったのですから。

 田舎の下級武士には相応しくないほどに。

 ……芸者の嫁など、とんでもない!


 祖父は私の母にこっそり金を渡し、黙って姿を消すように言い含めた。

 それから母は、将来を誓った男の前から消えただけじゃない。

 密かに私を生み落としたあと、この世から永遠に消えてしまったのです。


 人知れず、大川に身を投げて。


 祖父は、赤児の私を連れて平戸に戻った。

 本当は貴方の息子である私を「年の離れた弟」として届けを出して。


山南要助やまなみようすけ」と言う名前をつけて。


 でも母と引き離された赤児は、やはり祖父だけでは育てにくかったのでしょう。

 半年もしない内に赤児の私は病であっけなく死んでしまいました。


 貴方はその頃、利根川近くの仙台藩の飛び地で剣術師範けんじゅつしはんをしていた。

 母がなぜ自分の前から消えたのか、赤児の私が遠い平戸の地で死んだことも知らずに──


 しばらくしてから、貴方は仙台藩の剣術師範の職を解かれ、浪人してしまった。

 その頃、平戸に帰った祖父はこんな手紙を寄越しました。


要助ようすけ、死す」


 祖父は息子の代わりに孫の私を山南家の跡継ぎにしようと思ったのが、私はあっけなく死んだ。

 だからやはりお前が山南家の跡取りだ。

 平戸に帰って来い。

 そんな意味を込めた手紙だったのでしょう。


 けれども、貴方は帰らなかった。

 息子の出世を望むあまり、廃嫡はいちゃくしたり、また嫡子ちゃくしに戻そうとしたり。

 そんな祖父の身勝手さに嫌気がさしていたのかも知れません。


 そしてこう思った。


「……死んだ『要助ようすけ』とはいったい誰なんだ?

 父が外の女に生ませた子なのだろうか」


 同時に貴方の脳裏には、昔激しく愛した女の顔が浮かんだ。

 その女が、自分の子を宿していたかもしれない……という考えも。

 だがそんな思いをすぐに打ち消した。


「そんなことがあろう筈はない!」


 山南敬助。

 お前はこうして私と私の母を殺したも同然の男となったのだ。

 そして、私「山南要助」の魂は、父であるお前のすぐ近くに、まとわりつくようになったのだ。


 同時にお前の心中には「ひょっとしたら己は自分の愛する女と、子を亡くしたのかもしれぬ」と言う考えも、宿った。


 更に仙台藩を浪人したお前は、剣術道場・試衛館しえいかんの師範代となり、道場に引き取られていた「《そうじろう》」という幼い男の子を可愛がるようになった。


 死んだ息子である私、要助の代わりに。

 無意識に、貴様は。


 山南敬助、貴様は宗次郎を連れてよく多摩へ出稽古に出かけた。

 稽古の帰り道、誰も見ていないのを見計らって宗次郎はお前の手を握ってこう呼んだ。


「兄さま。兄上」


 幼くして江戸の試衛館道場に預けられた宗次郎は、誰も見ていない場所で、血の繋がりなどない貴様に、そんな風に甘えたのだ。


「山南の兄上。私はとんがらし地蔵にお詣りしたいのです」


「とんがらし地蔵?」


「私が多摩に住んでいたころ、姉上とよくお詣りに行ったお地蔵さまです。

 そこにお詣りをすれば、強くなれるから」


「ああ、いいとも」


 幼い宗次郎の顔によく似た「とんがらし地蔵」に手を合わせたあと、宗次郎は何処からか見つけてきた太い丸太を振り回し、やんちゃをした。

 お前はまるで実の弟か息子に対してのように宗次郎を諭した。


「やめなさい、宗次郎。危ないよ?

 そんな太い丸太を振り回すのは、お前にはまだ早い」 


 宗次郎は不満気に足を踏み鳴らす。


「太い刀でなければ駄目なんです、兄上!

 細い刀は折れて、敵にやられてしまうのだから!」


 けれども宗次郎は直ぐに機嫌を直し、澄んだ声で多摩の童歌わらべうたを歌う。


程久保小僧ほどくぼこぞうの、程久保小僧ほどくぼこぞうの、勝五郎……

 生まれ変わりの勝五郎。

 兄上。勝五郎かつごろうと言う子供はね、本当に生まれ変わったんだ。

 本居宣長もとおりのりながと言う偉い学者も日野に来た。

 本当の話なんですよ?」


 死んだ実の息子である私の魂は、すぐ側で、ずっとそんな貴様等のやり取りを聞いていたのだが。


 何年かの後。

 貴様、山南敬助は青年になった宗次郎──沖田総司と試衛館の道場主の近藤勇や土方歳三、他の人々と京に上った。

 浪士組から新選組。

 そして新選組は京洛にその名を広く知られていった。


 貴様は、そこの副長となった。

 大したものだ。

 祖父、山南茂地衛門やまなみもじえもんの願いは見事、かなったのだからな。


 だが、貴様には辛い事もあったようだ。

 仲間の芹沢鴨一派を「倒幕派の有栖川宮ありすがわみや家に寝返った」という理由で粛清──殺さなければならなくなったのだから。

 京都守護職、松平容保公の命令だ。


 土方歳三はこう言った。


「芹沢さんは俺が殺る。

 近藤さんの手を汚させる訳にはいくまい」


 すると宗次郎、いや「沖田総司」は土方にこう反論した。


「近藤先生の手を汚す訳にいかないと言うなら、直弟子じきでしの私がやります。

 汚れるのは、私だけで充分ですよ」


 それを聞いた貴様──山南敬助は総司をこう諭した。


「総司。まだ年若い君だけを汚す訳にはいかないよ。

 君がどうしても芹沢さん達を殺すと言うなら、私も共に汚れよう。

 ……有栖川宮家には土方君たちばかりじゃない、この私も一緒に行ったのだから」


 貴様は、沖田総司や土方歳三と共に、芹沢鴨やお梅を斬り殺した。


 暗闇にあふれる血の海の中、カッと見開いた芹沢の眼が


(……山南君。

 私を殺した君の刀はどんな刀だ?

 天然理心流、肉厚にくあつの刀か。

 それとも、『細い刀』かね?)


 微かに笑いながらそう問うていたのを、貴様は確かに見た。

 わらう芹沢の眼は──山南敬助。

 貴様の心に重いくさびとなり、残り続けたのだ。



 だが新選組副長の仕事はお前を待ってくれなかった。

 踏み倒しを恐れ大名に金を貸さなくなった豪商に、会津の資金まで借りに行かなければならない。


 大阪の鴻池こうのいけに金を借りに行く時、お前は鴻池から贈られた刀「赤心沖光せきしんおきみつ」をいて行くことにした。

「赤心沖光」を見た土方は顔を曇らせこう言った。


「危ないよ、山南さん。

 精巧に作られた見事な刀だが、細い。

 実戦向きじゃない。

 万が一の事があったらどうする?」


 するとお前は明るく笑ってこう答えた。


「鴻池に資金を借りに行くんだ。

 ならば、鴻池から贈られた刀を佩いて行くのが礼儀と言うものだよ、土方君。

 考えてもみたまえ。

 二十年ほど昔なら武士もみだりに刀を抜くことは禁じられていた。

 だからこうした刀も作られたのさ」


 そして「あの事件」が起きた。


 お前が資金を借りに行った鴻池近くの商家、岩木升屋いわきますや不逞浪士ふていろうしが押し入った。

 知らせを受けて升屋に駆けつけたお前はただ一人、奮戦し──だが鴻池から贈られた「赤心沖光」は折れた。

 バキリと。


 それでも不逞に立ち向かい深手を負ったお前の耳には、あの日の幼い宗次郎の声が聞こえた。


(細い刀では駄目なんです、兄上。

 敵に殺られてしまう!)


 別の店に資金の相談に来ていた土方が駆けつけた時にはもう遅かった。

 お前は血の海に浮ぶように倒れていた。

 あの夜、粛清された芹沢と同じように──


 そして二度と得意だった「剣」を握れない身体となってしまった。


 剣を握れなくなったお前は壬生の屯所から少し離れた大津の、温泉が湧いていた村で療養を始めた。

 村の名主の末娘が身の回りの世話をするようになり、お前と娘は男女の関係となり、結ばれた。



 ──けれども、お父さん。

 不思議な話もあったものですね。



 新しい「女」となったその娘は、私を生み落としたあと、すぐに大川に身を投げた私の母と、瓜二つだったのですから。


 貴方はその療養先の小さな屋敷で、村の子供達に手習いを教えたり、子供たちが棒切れを出鱈目でたらめに振り回しているのを見かねて「剣の構え」を教えてやったりしましたね。

 そんな事をしながら、しばらくは穏やかな日々がすぎていった。


 けれども新選組は貴方にそんな穏やかな毎日を許してはくれなかった。

 ある日、大津に新選組の迎えが来た。

 やって来たのは──あの沖田総司だったのです。

 唇を噛み締めた沖田はこう言いました。


「近藤先生がお呼びなのです。

 どうしても壬生の屯所に来るようにと……」


 こうして貴方がしぶしぶ壬生の屯所に行くと、局長 近藤勇は開口一番、こう言ったのです。


「君は江戸に帰ったらどうだろう?」


「帰れとは……」


「君の傷の治りはどうも良くないようだ。

 江戸に帰った方が治りも早くなるのではないか」


「剣を握れなくなった私はもう用済みだと?」


「そうは言ってない。

 君には知恵と学問がある。

 それは惜しい。

 だが君は大津に療養しに行ったきり屯所に全く顔を見せていないじゃないか?

 ならばいっそ、慣れた江戸に帰った方が……」


「はっきり言ってくれ!

 剣を握れない私など今の京には必要ないと!」


 近藤は鼻白んだ。


「ならば言わせてもらう。

 そもそもあの『岩木升屋事件いわきますやじけん』でそこまでの怪我をしたのは君の方にも不覚があったからじゃないか?

 君の剣は赤心沖光。

 大阪者が打った『細い剣』など、ただの飾り物。武士がたずさえる刀では──」


「いったい誰のためにあの赤心沖光を佩いて行ったと思っているんだ!!

 あの剣は資金の借り先、鴻池から譲られた物!

 その鴻池に新選組ばかりか、会津公の資金、必要な事だとは言え近藤さん、貴方の遊興費まで再三借りに行くのなら、譲られた剣を佩くのが礼儀と言うものだろう!!」


 貴方の剣幕には流石の近藤勇も黙らざるを得なかった。


「……言いすぎた。山南君。

 機嫌を直してくれ」


 その日はもう暮れかかっていたので、貴方は壬生の屯所の一部屋に泊まることにした。


 しかし翌朝、部屋に朝餉あさげを運んできた隊の小者が見たのは、腹をさばいて倒れていた貴方の姿だったのです。


 廊下を転がるような勢いで走ってきた小者の知らせで部屋に駆けつけた近藤、土方、沖田……新選組の幹部たちの顔は凍りつきました。

 倒れた貴方の身体はまだ微かに痙攣している。

 ヒク、ヒクと。

 けれど、土方歳三は貴方の様子を見て静かに首を振りながら言ったのです。


「……総司」


 もう駄目だ、間に合わない。

 介錯をしてやれ。

 そう言う意味だったのでしょう。

 そんな土方に、沖田は意外な程落ち着いた声で答えました。


「承知しました。

 しかし皆さんは部屋の外へ出てください。

 山南先生もこの様な所を見られるのはお嫌でしょうから」


「検分はどうするんだ?」


「山崎君が良い」


「山崎だと?」


「ええ土方さん。是非。

 山崎君でお願いします。

 それ以外の方は部屋から出てください」


 近藤も土方も他の幹部も沖田の腕と、貴方──「副長・山南」の仲の良さは知っている。

 沖田の言う通り皆は部屋を出、やがて医学の知識のある山崎烝が呼ばれてやって来た。

 沖田は山崎に言いました。


「山崎君。延命措置えんめいそちをお願いします。

 君なら出来るでしょう?」


「延命?」


 山崎は目を見張りました。


「……それは」


「一番隊長の僕が命じているんだ。

 君には何としてでも延命治療をしてもらう」


 今更無理でしょう、と言いかけた山崎の喉元に、沖田は抜いた刀を突きつけながらこう命じたのです。

 普段は穏やかな青年に育った沖田に取って、それは考えられないほどの酷い脅しでした。


「し、しかし!」


「山南さんには大津に女がいる。

 妻同然の人だ。先程迎えに行かせた。

 せめてその人が間に合うまでは──!

 ね、わかったね?山崎君」


 蒼白の山崎烝は小さなため息をついた後、致し方なく延命措置の用意を始めました。

 様々な漢方、はり、御殿医の松本良順から譲られたエーテル、西欧の機器……


 山崎から奇妙な口当てを当てられ、何本もの鍼を手早く打たれ、朦朧もうろうとしている貴方の手を強く握りながら、沖田総司は途切れ途切れに呼び掛けました。


「山南先生。いえ兄上。山南の兄上。

 聞こえていますか?

 ……あなたはここで無念の死を迎えはしません。

 これから世の中は平和になる。

 貴方や私達の手で。

 兄上の望んだ通りにです。

 そして貴方や私たちは無事、故郷に帰り、故郷の人々に感謝され、温かく迎えられ……

 貴方は愛する人と共に長く生き、子にも恵まれ……お子の名前は何と言ったか。

 確か息子だったはず。

 とにかく貴方は栄光の中で天寿を全うする──天寿を全うするのです。

 そう。今は、あの時代から長い時が経ちました。

 貴方は長い時が経った今、天寿を全うしようとしているんです!」


 ……そうか、沖田総司。いや宗次郎。


 お前はそこまで我が父、山南敬助のことを慕っていたのだな。

 それこそ実の兄か父以上に。

 せめてそんな風に思い込ませて死なせようと。


 だが遅い。我が父 山南敬助はもう、死ぬ。

 意識を失ったまま。

 いや、一つだけ「方法」がないではない。

 それは「私だけ」が出来る「やり方」だ。


 お前は、私の父の「身体」がただ生きれば、それで良いのか?


 ほう?そうか。

 それならお前の望む通りにしてやろうじゃないか。この私が。

 お前が、山南敬助が生きる代償を永遠に背負うつもりならな。


 いいのか?もう覚悟はできたか?

宗次郎……


「兄上!山南の兄上。兄さん!!」


 長い間、父 山南敬助の背後にただよっていた私の魂は、沖田の叫びを聞き、そのままスゥ、と父の身体に引き寄せられた。



 目が覚めると、私の目の前には心配して私を覗き込む沖田総司と、確か山崎烝と言ったか。若い男の顔が見えた。


 山崎烝は言った。


「目を覚まされましたか、山南副長!

 ……信じられない。奇跡のようです。

 お腹に召された傷の化膿も良くなっている。これは……」


「兄…、山南先生!気がつかれたのですか?今、大津から奥さまが来ますよ!」


 相変わらず私の手を握り声を振り絞る沖田総司、いや「沖田さん」に私は答えた。


「山南先生?

 それは、私の父のことですね?

 沖田先生。総司の兄君あにぎみ

 私の名前は山南要助やまなみようすけ

 亡くなった父、山南敬助の一子いっしです。

 父は、世のために働き、天寿を全うしてとうに死んだ。

 ……そう。そんな声が聞こえました。

 そうなのでしょう?

 まだ世は平和になっていないのですか?

 しかし、大丈夫でしょう。

 きっと収まります。

 貴方や父が懸命に力を尽くしたのですから」


「……………………」


「大津から山南先生の奥さまがいらっしゃいました!」


 小者が知らせるが早いか、女が廊下を駆け寄る足音がする。

 カラリと障子を開ける音と共に部屋へ入った女は叫んだ。


「旦那様!!」


 女を見る。

 顔には確かに往年の美しさが残っていた。

 だが私にはその女が、五十の坂をとうに越えた年老いたおうなにしか見えない。

 私は媼に言った。


「母上。貴女は私の母上様ですね?

 私はどうして腹などを。

 老いた母上様にまで御心配をお掛けして誠に申し訳ございません。

 しかしもう大丈夫です、母上様……」


「旦那様ッ!!」


 悲鳴のような声を上げて泣き伏す「老いた母」

 私を見つめる新選組幹部の顔、顔、顔。


 私は彼等に告げた。


「ご心配おかけしました、新選組の皆さん。

 父も皆さんも力を尽くされたのです。

 きっとすぐに世は収まるに違いありません。

 ……皆さん、本当にご苦労様で御座いました」


 ※※※※※※※


 その後、私は東へ帰った。

「母」と共に。

 あれから「母」の顔は常に悲しげだ。


 周りは「この人はまだ若い。貴方の妻なのだ」と言うのだけれど、私には「艶の無い白髪を束ね深いしわが刻まれたおうな」「母」にしか見えない。


「母」もそんな私に何も言わない。

 悲しげに、ただ黙っている。

「母」の白髪を櫛でいてやる。

 それでも黙っている。


 江戸から多摩に落ち着いた私は子供達に手習いと、時たま戯れに「剣の型」を教える師匠となった。


 ※※※※※※※


 何年か後、戊辰戦争ぼしんせんそうと言う戦が起きた。

 おかしい。

 なぜこんな戦が起きてしまったのだろう……?

 新選組はあれだけ世の治安のために働いたと言うのに──


「沖田の兄君あにぎみ」は、戊辰の戦いの中、労咳で倒れた。


 私は折に触れ、彼の元へ見舞いに訪れる。

「兄君」の世話をしているのは「土方副長」から後を託されたあの「山崎烝」と似たような顔をした小姓、ただ一人。

 それは悲しいことだった。


 ──時に、私の身体の中で「誰か」の声が聞こえる。

 だがその声が誰なのかはよくわからない。

 それは「死んだ」はずの父、山南敬助の声なのか。いや、まさか。


「お加減は如何ですか……?」


 私が「沖田の兄君」に問うと彼は何とも言えない顔で私を見つめる。


 ……その時、「私の中の何か」にグイ!と押し退けられる感覚を覚えた。


 目の前の「宗次郎」はつぶやいた。


「兄上。貴方は山南の兄上なのですね……?」


「何か」は私の代わりに答えた。


『ああ、そうだとも宗次郎。私は敬助だ』


「兄上。兄上。正気に戻られたのですね。

 戻って来てくれたんですね。

 私にはわかる。

 貴方は『要助ようすけ』なんかじゃない。

 新選組の副長、山南敬助なんです!

 申し訳ありません。

 あの日私が、死のうとした貴方におかしな事を吹込みさえしなければ……!」


『何も心配することはないんだよ、宗次郎。さあ。少し眠りなさい』


 そのまま宗次郎は「山南敬助」の腕の中で眠るように息絶えたのだった。


 ……さあ。もういいでしょう、父上。

 今、この身体は既に貴方の物ではない。


 あの日、貴方は確かに死んだ。

 それ以来この身体は、私の物となったのです。

 貴方はもう「私の中」に収まってください。深く、静かに。


 ──明治も五年をすぎた。

 多摩に住む私は、老いた母と共によく近所の「とんがらし地蔵」に詣でる。

 地蔵菩薩の顔は、やはり宗次郎によく似ている。

 花と線香を捧げた時、その地蔵がささやいた。


『兄上。細い剣じゃ、駄目だったんだ。

 やっぱり』


 ああ。そうだったのだね。 宗次郎。

 お前はずっとここで待っていたのか。

 かつての私と同じように。


 お前は、私だったのだ。

 それなら。さあ、こちらにおいで。


 ついこの間なのだが、「私の中の何か」が、また私の意識を押しのけて動いた。

「何か」は私の「老いた母」をその手に抱いたらしい。


「旦那様」「旦那様」

 母上、なぜそんな嬌声きょうせいを?


 ……恐ろしい。怖いよ。やめて。お母さん。

 やめてください!

 貴女はもう白糸の髪、無数のしわを刻む老婆だというのに、なぜ。


「何か」は再び沈黙した。

 沈黙したまま息を潜めている。


 ──以来、「母」はどうも身籠ったらしい。

 それは「何か」の子なのだろうか?


 いや宗次郎。

 今、母の胎内に居るのはきっとお前なのだ。

 だからすぐにおいで。私の元に。

 そして一緒に歌おう。多摩の童歌わらべうたを。


『程久保小僧の、程久保小僧の……』


 遠くから澄んだ歌声が聞こえる。


 地蔵菩薩の赤い風車が、風に吹かれ、ただクルクルと回っている。


 回っている。

 回っている。


 いつまでも。


【完】

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とんがらし地蔵 小海倫 @koumirin

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