第34話 祖母のメールフォルダー
実家の引き出しは、時間が折りたたまれている。
帰省の荷物をほどく前に、私は居間の畳に座った。畳の匂い。新しくない畳の、少し甘い乾いた匂い。窓の外から金木犀が流れてきて、鼻の奥が一瞬だけ昔に戻る。秋は匂いで人を連れ去るのが上手い。
「これ、捨てていい?」
母が台所から声をかけてきた。手には小さな箱。菓子箱のような、角が少し潰れた紙箱。
「なにそれ」
「昔の携帯。おばあちゃんの。しまってあったの」
箱の蓋を開けると、古い折りたたみ携帯が出てきた。ガラケー。黒。角が丸い。ボタンの数字が少し擦れている。懐かしいのに、触るのが怖い。遺品って、機械でも遺品だ。
祖母が亡くなって、もう三年経つ。経ったのに、経ってないところがある。記憶の中の祖母は、いつも季節をちゃんと知っている。暑い日は「水飲んだ?」と聞いてくるし、寒い日は「首、冷やしちゃだめ」と言う。私はその声を頭の中で再生して、たまに自分で自分の首元を守る。
私は携帯を手のひらに載せた。重い。今のスマホよりずっと重い。重さが、物理の重さじゃなくて、時間の重さみたいだった。電源を入れられるのかもわからない。入れたら何が出てくるのかもわからない。
「充電器、ある?」
私が言うと、母は「どこかに」と曖昧に返した。曖昧さが優しい。今、はっきりさせる必要はない、という感じ。
結局、引き出しの奥から古い充電器が出てきた。ケーブルの被膜が少し黄ばんでいる。私は畳の上で正座のまま、それを携帯につないだ。カチッ、と小さな音。機械が呼吸を取り戻す音。
しばらくして、画面が光った。
ピッ。
起動音が、やけに澄んで聞こえた。畳の匂いと、金木犀の匂いと、その電子音。混ざると、胸の奥がきゅっと縮んだ。縮むだけで、涙は出ない。涙って、準備ができたときにしか出ない。
私はメールの受信箱を開いた。古い文字。小さな画面。スクロールの速度が遅い。遅いのが、今は助かる。速いと心が追いつかない。
件名の一覧に、祖母の名前があった。いつも「おばあちゃん」って表示される設定。そこに並ぶ日付。秋、冬、春。季節がメールになって並んでいる。
私は一通目を開いた。
『遥へ
今日は寒いから、ちゃんと靴下はきなさいね
転ばないようにね』
短い。絵文字がひとつ。昔の丸い顔。私はその絵文字の古さに、笑いそうになって、笑えなかった。笑うと、今の自分が壊れそうだった。
次のメール。
『今日は雨。駅の階段すべるから気をつけて。
帰りに温かいの飲んでね』
メールの内容はだいたい同じだ。水分、足元、首元、温かいもの。祖母の世界は、私の体を守ることでできている。それが急に胸に詰まった。詰まると呼吸が浅くなる。私は携帯を一度閉じた。折りたたみ携帯は閉じる動作が「中断」になってくれる。便利な中断だ。
承。過去に沈む。
沈むと、畳が柔らかく感じる。居間の時計の針の音が大きくなる。台所から鍋のふたが当たる音。母の足音。全部が今の音なのに、私は今じゃないところにいる。祖母がいた頃の、夕方の居間。テレビの音。祖母の膝の毛布。みかんの皮の匂い。
私は携帯を握ったまま、親指でボタンを押し直した。握り直す、という癖が出る。通知を切れずに握り直すのと同じ動き。自分を落ち着かせるための、指の儀式。
もう一通だけ、と言い訳を作って受信箱を開く。言い訳を作ると、少し進める。
祖母のメールは、思ったよりも日常だった。大げさな愛の言葉じゃない。手紙みたいな長文でもない。ただ、生活の端っこを守る言葉。生活の端っこって、守られないと崩れる。崩れると、世界は静かに大変になる。
私は何通か読んで、あるところで止まった。
『遥へ
うまくいかない日もあるよ
うまくいかない日は、寝なさい
寝たら、明日になるから』
胸がぎゅっと鳴った。音がした気がした。祖母は「明日になるから」と言っている。世界が続くことを、当たり前みたいに書いている。私は今まで「明日になる」を勝手に疑っていたのかもしれない。うまくいかない日って、明日になっても残ると思っていた。残ることもある。でも、明日になる、は確かに起きる。
ここで、転。背景が一つだけ見えた。
祖母の言葉は「過去の私」に向けたものじゃなくて、「今の私」にも使える。
当たり前なのに、発想が変わると息が入る。祖母のメールを「思い出」として読むと、私は沈む。でも「今の自分への手紙」として読むと、浮かぶ。浮かぶというより、足がつく。
私は携帯のメモ機能を探した。古い機能。探すのに時間がかかる。時間がかかるのが、またいい。私は急がなくていい。
メモに、祖母の言葉を書き写した。写すと、言葉が体に入る。画面の小さな文字を見て、指で押して、一文字ずつ打つ。打つたびに、祖母の声がほんの少し現実になる。
『うまくいかない日は、寝なさい』
私はその下に、自分の言葉を足した。
『寝る前に、スマホは伏せる』
自分の癖に向けた微調整。祖母がいたら「そうそう」と言いそうだ。言いそうだ、という想像が少し温かい。
さらに私は考えた。祖母のメールが消えるのが怖い。古い携帯はいつか壊れる。充電器もなくなる。データも消える。消えるのは仕方ない。でも、言葉まで消えるのは嫌だ。嫌だ、と思うと手が動く。
私は「保存箱」を作ることにした。物の箱じゃなく、言葉の箱。
母に頼んで、古いノートを一冊もらった。学生時代の残りのノート。表紙が少し汚れている。私は畳の上にノートを置いて、ペンを取った。ペン先が紙に触れる音が、秋の静けさに合う。
祖母のメールから、いくつか選んで書き写す。全部じゃない。全部書くと、また沈む。背景は一つだけでいい。今日の私を支える言葉を、三つだけ。
『転ばないようにね』
『温かいの飲んでね』
『寝たら、明日になるから』
書き写した後、私はその横に自分の言葉も少しだけ書いた。
『玄関にスリッパを置く(転ぶ原因を減らす)』
『夜は白湯にする(冷えを減らす)』
『通知は寝る前に切る(明日に持ち越す)』
結。大切な言葉を残す。
ノートのページを閉じると、紙の匂いが立った。畳の匂いと混ざって、落ち着く。保存箱は、箱じゃなくても作れる。ノート一冊でも、気持ちは片付く。
夜になって、母がみかんを持ってきた。みかんの皮を剥く匂いが広がる。私はみかんを一房口に入れて、甘さを噛んだ。噛むと、今に戻る。味覚は現在に強い。
「おばあちゃんの携帯、どうする?」
母が聞いた。
私は少し考えて、言った。
「捨てない。けど、ずっと見ない。……保存したから」
母は「そっか」と言って、みかんの白い筋を指で取った。白い筋は、取っても残る。残るのが普通だ。
寝る前、私は古い携帯の電源を落とした。画面が消えて、部屋の暗さが増す。増すけど、怖くない。金木犀の匂いがまだ窓の外にある。畳の匂いが足元にある。ノートの中に、祖母の言葉がある。
通知が鳴らなくても、世界は続く。祖母の声がもう届かなくても、言葉は残る。残した言葉が、明日の私の生活を一ミリなめらかにしてくれる。秋の夜は静かで、その静かさが肯定みたいに部屋に降りた。
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