第33話 カスハラ現場に居合わせた客
秋の夜は、声が通りすぎる。
仕事帰り、駅前の小さな定食屋に入った。いつもより遅い時間で、店内の照明が少しだけ眠そうだった。入口の引き戸を開けると、だしの匂いと油の匂いが混ざって、胃が勝手に「助かる」と言った。空腹って、感情より正直だ。
カウンターの端に座って、私は水を一口飲んだ。冷たい。秋になって、氷の入った水が少しだけ鋭い。隣の席には、スーツ姿の男性がスマホを見ている。奥のテーブルには、学生っぽい二人が小声で笑っている。普通の夜。普通の店。
「唐揚げ定食、お願いします」
私は言い切った。言い切ると、頼んだものがちゃんと来る気がする。
店員さんが「はい」と頷いた。その瞬間だった。
「おい! おかしいだろこれ!」
声が、店内の空気を押しつぶした。
私は反射で肩をすくめた。声の圧って、本当に物理みたいだ。音量だけじゃなく、方向がある。尖って飛んでくる。
怒鳴っているのは、入口に近いテーブルの中年男性だった。目の前に置かれた丼を指で叩いている。叩くたびに器が小さく鳴る。チン、チン。金属じゃなく陶器の音なのに、耳が痛い。向かいに座っている連れの人は、視線を落としている。落として、何も言わない。言えないのかもしれない。
店員さんは若い女性だった。髪を後ろでまとめて、エプロンの紐をきっちり結んでいる。笑顔が一瞬だけ固まって、それからすぐ戻った。戻ったけど、目の奥が少しだけ遠くなる。遠くなる目。あれは「耐える目」だ。
「申し訳ございません、どのあたりが……」
店員さんの声は、できるだけ低く穏やかだった。穏やかにすると、相手の声が余計に目立つ。正しい対応が、場の不公平を見せることがある。
「どのあたりじゃねえよ! こんな冷めたの出してさ! 金取る気あんのか!」
男性の声がさらに上がる。周りの客が一斉に動きを止めた。箸が止まる。水を飲む手が止まる。笑い声が消える。店内の空気が薄くなる。
私は心臓の音が少し大きくなった。助けたい、と思った。思ったけど、怖い。怒鳴り声の近くに行くのは怖い。正義って言葉は簡単だけど、正義の現場はだいたい危ない。私は「何か言うべき?」と頭の中で探りながら、身体は椅子に貼りついたままだった。
助けたいのに動けない自分が、嫌になる。嫌になると、さらに動けなくなる。自分の中で小さな炎上が始まる。外の炎上と内の炎上が同時に起きると、人は固まる。
店員さんが謝りながら、丼を下げようと手を伸ばした。その瞬間、男性が皿を少し引いた。引く動きが乱暴で、器の縁がテーブルに当たってガン、と鳴った。音が「やめろ」に聞こえる。
私は喉が渇いた。秋の冷えが背中に来る。暖房の効いた店内なのに、首の後ろだけ冷たい。怖いと、体温の分布が変わる。
「……」
何も言えない。言えないまま、私はカウンターの端に置いたレシート入れを見た。まだ会計していないのに、そこにある白い紙の束が妙に現実的だった。お金を払う、食べる、出る。日常の手順。今はその手順が、怒鳴り声で乱されている。
そのとき、店員さんがふと、私のほうを見た。
ほんの一瞬。目が合った、ような気がした。気がしただけかもしれない。でも、その視線の動きに「合図」が混じっていた。合図っていうのは、言葉じゃない。瞬きのタイミング、顎の角度、視線の止め方。そういう細かいところに出る。
店員さんは丼を持ったまま、少しだけ体の向きを変えた。入口側じゃなく、カウンター側へ。つまり、私たち客がいる側へ逃げ道を作るみたいに。その動きが「近づかないで」じゃなく、「近づくならここから」って言っているみたいだった。
私は一つだけ思い出した。前にニュースか何かで見た、「安全に介入する」ってやつ。正義をぶつけるんじゃなく、仕組みの手順に乗せる。個人対個人にしない。誰かを論破しない。
私は深呼吸して、立ち上がった。膝が少し震えた。震えるのは普通だ。震えない人のほうが怖い。
カウンターの内側にいる店主らしき男性に、なるべく普通の声で言った。
「すみません、今……大丈夫ですか。呼んだほうがいいですか」
「呼ぶ」って言葉をあえて曖昧にした。警察とか、責任者とか、具体を言うと場が跳ねる。跳ねると危ない。私は自分が賢いことをしているつもりはない。ただ、火に近づきすぎない距離を探した。
店主は私を見て、一瞬だけ眉を上げた。そして小さく頷いた。頷き方も、淡々としている。感情を盛らない。淡々とするのは、ここでは優しさだ。
「ありがとうございます。少し、お待ちください」
店主はそう言って、奥に声をかけた。声のトーンが変わらないのが逆に強い。店の「いつもの運転」に戻そうとする力。
怒鳴っている男性は、こちらのやり取りに気づいたようで、椅子をギッと鳴らして立ち上がりかけた。
「なんだよ、客が口出すのか」
その言葉に、私は一瞬だけ後ずさりしたくなった。喉が固くなる。正義を出すって、こういうことだ。出した瞬間に、矢印が自分に向く可能性がある。私の体は「逃げろ」と言う。でも私は、逃げる代わりに別の手順を選んだ。
私は男性を見ないで、店員さんのほうを見た。目線を合わせない。挑発しない。代わりに、私ができることに集中する。
「すみません、会計先にできますか」
カウンターに向かって、私はそう言った。会計。日常の手順。手順を動かすと、空気が少し戻る。店員さんがすぐに反応した。
「はい、ありがとうございます」
店員さんの声が、さっきより少しだけ太い。助かった、という感情が混ざると声は太くなる。私は財布を出して、手元の動きに集中した。指が少し汗ばんでいる。レシートの紙が指に吸い付く感覚が想像できる。こういうとき、紙は湿る。
店主が「唐揚げ定食、お待たせしました」と私の前に置いた。私は、今それどころじゃないと思ったのに、湯気が立っているのを見て、逆に泣きそうになった。日常って、こういう湯気で続いている。
私は会計を済ませた。レシートが出てきた。白い紙。細い文字。今日の証拠。私はその角を折りそうになって、やめた。折ると「自分の中で事件にする」感じがする。事件にしたいのは、もう十分だ。
その間に、店主が落ち着いた声で男性に向き合っていた。向き合っているけど、ぶつかっていない。言葉の速度を合わせず、温度だけ下げている。店員さんは少し距離を取り、私がいるカウンター側に寄った。逃げ道ができている。私がやったことは、たぶんそれだけだ。逃げ道を作る手順に乗っただけ。
数分後、男性はぶつぶつ言いながらも席に座り直した。店主が料理を温め直す約束をして、場は少しずつ元の音を取り戻した。箸の音、水の音、換気扇の音。人の声が小さく戻る。戻ると、私は急に疲れた。正義って体力がいる。しかも、勝った負けたじゃなくても消耗する。
店を出ると、秋の夜の冷えが頬に刺さった。さっきまで暖かい湯気の中にいたのに、外は別世界みたいに冷たい。空気が乾いていて、息を吸うと喉が少し痛い。私は駅へ向かいながら、レシートを握り直した。紙が少し湿っている。私の汗だ。
「助けた」って言うほどのことはしていない。でも「何もしなかった」でもない。その中間の、ちょうどいいところ。正義の出し方って、たぶんそういう微調整なんだと思った。相手を叩く正義じゃなく、場の安全を守る正義。個人の戦いにしない正義。
帰りの電車で、私はスマホを開きそうになって、やめた。誰かに報告したい気持ちがあった。自分が正しいことをしたって証明したい気持ち。そういう欲も、ちゃんとある。でも、それをやると今日の出来事が「私の物語」になりすぎる気がした。あの店員さんの疲れが、私の武勇伝に変わるのは嫌だった。
だから私は、レシートを財布に入れて、深呼吸した。秋の夜は冷える。冷えるけど、世界は続く。怒鳴り声があっても、湯気は立つ。誰かの淡々とした合図と、こちらの小さな手順で、場は一ミリなめらかになる。通知が鳴らなくても、正義は静かに残る。
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