第35話 イヤホン片耳の会話

 秋の朝は、音がはっきりしている。


 自転車を押して駅前の駐輪場へ向かう途中、落ち葉を踏む音が「ぱりっ」と鳴った。湿ってない落ち葉はよく割れる。空気も乾いていて、息を吸うと鼻の奥が少し冷たい。私はハンドルを片手で支えながら、もう片方の手でスマホを握り直した。通知が来ているわけじゃないのに、握り直してしまう。癖だ。


 ホームに上がると、通勤の人の列がいつも通りにできていた。いつも通り、がありがたい日もある。今日はありがたい側だった。眠いけど、崩れてない朝。


 電車が来て、私は車内に滑り込んだ。空いている座席はなく、吊り革の下に立つ。胸の高さに広告、耳の高さにアナウンス。秋は駅のアナウンスまで乾いて聞こえる気がする。


 その「耳の高さ」に、別の音が混ざってきた。


 シャカシャカ、というハイハットみたいな音。低音が薄く、そこだけ妙に目立つ。誰かのイヤホンから漏れている音だ。漏れている音は、曲の一番いいところを削った状態で出てくるから、余計に気になる。おいしいところだけ抜けたラーメンみたいな味のしない音。


 私は周りを見た。犯人探し、というほど大げさじゃないけど、音の出どころが気になる。気になると、視線が勝手に動く。


 斜め前の男性。二十代くらい。片耳にイヤホン。もう片方は外している。外した耳は、たぶん安全のため。そういう人、増えた。片耳ならマナーがいい、みたいな。実際は、片耳のぶん音量が上がることもある。


 音漏れは、その男性からだった。


 私は眉間に小さく力が入った。注意したい、というより、「下げてほしい」。でも、下げてほしいを口に出すのは難しい。難しいのは、正しいかどうかじゃなく、空気の問題だ。朝の車内は、余計な会話が生まれると一気に重くなる。私もその重さを背負いたくない。


 承。注意できないまま、頭の中で勝手に話が膨らむ。


 あの人、自分の音が外に出てるって気づいてないのかな。

 気づいてるけど、気にしてないのかな。

 気にしてないなら、私が言っても無駄かな。

 言ったら逆ギレされたらどうしよう。

 いや、逆ギレじゃなくても「は?」って顔されるだけでしんどい。


 しんどい、の見積もりがどんどん増える。私はその見積もりをしている間も、音を聴き続けている。自分で自分を罰しているみたいだ。音漏れのストレスは、相手の問題なのに、私の脳内で増幅する。


 私はポケットから自分のイヤホンを出そうとして、やめた。逃げたい。自分も音で壁を作ればいい。でも、それをやると「音の戦争」になる気がした。静かにしてほしいのに、こちらも音を足す。足し算のストレス。


 ふと、自転車のベルのことを思い出した。こないだ、歩道でベルを鳴らしたときの、あの乾いた音。鳴らすと人は避ける。でも避けた人の背中は、ちょっと固くなる。ベルは便利だけど、攻撃に見える瞬間がある。音は、簡単に刃になる。


 じゃあ、刃じゃない音の出し方って何だろう。


 そのとき、電車が揺れて、私は吊り革を握り直した。握り直すと、目線が少し下がる。男性の手元が見えた。スマホの画面。動画。画面の端に小さく字幕が流れている。男性は片耳で聞きながら、外した耳で周りの音も拾っている。周りに気を配っているつもりなのが、なんとなく伝わる。悪意じゃない。たぶん、仕組みとタイミングの衝突。


 転。背景が一つだけ見えた。


 「片耳」って、本人なりのマナーなんだ。


 マナーを守ろうとして、結果として漏れている。そういうズレは、責めると折れる。折れると、相手はマナー自体をやめてしまうかもしれない。私は正しさで勝ちたくない。ただ、音を少し下げてほしいだけ。


 私は深呼吸した。秋の朝の空気は、車内でも少し冷たい。冷たいと、頭が少し冴える。


 仕掛け。本人が気づける仕掛け。


 私は自分の片耳にイヤホンを入れた。入れたけど、音は流さない。耳に「何かつけてる状態」だけを作る。それから、外したほうの耳を少し強調するように、指で軽く触った。触っただけ。大げさにしない。やさしいジェスチャー。


 そして、あえてその男性の近くに少しだけ寄った。寄るのは怖い。でも距離を縮めると、音漏れがはっきりする。はっきりすると、本人にも届く可能性が上がる。音って、反射するから。車内のガラスや床が、音を返す。


 男性がちらっとこちらを見た。視線が合いそうで合わない。合わないくらいがいい。私は目を逸らして、窓の外を見るふりをした。責めてないよ、の態度。


 次の瞬間、男性が自分のイヤホンを指で押し込んだ。押し込むと、密閉されて音漏れが減る。さらに、スマホの音量を一段下げた。指が画面のボタンをちょん、と触れる。ほんの一段。


 音漏れが薄くなった。


 世界が一ミリ静かになった。たった一ミリなのに、私の肩の力が抜けた。抜けると、笑いそうになる。こんなことで。こんなことで救われるんだ、と思うと、自分が少し可笑しい。


 男性は外していたほうのイヤホンも、いったん耳に当てて、また外した。音量が下がったから片耳でもいける、という判断かもしれない。判断の仕方が、ちょっと真面目で、私は勝手に好感を持ってしまった。知らない人に勝手に好感を持つのも、朝の電車の暇つぶしだ。


 結。責めない伝え方を、私は一つ覚えた。


 言葉で「うるさいです」と言う代わりに、「気づける状況」を作る。ベルを鳴らす代わりに、相手のマナー意識が働く余地を残す。完璧じゃない。相手が気づかなかったら何も変わらない。でも今日は変わった。変わったことを、私は自分の中にちゃんとしまっておきたい。


 駅に着いて、人の流れに押されながらホームに降りた。秋の空気が一気に鼻に入る。乾いた冷たさ。遠くで別の電車のブレーキ音。キィ、と金属が擦れる音。音があるのに、さっきより優しい。


 改札へ向かう途中、自転車の鍵をポケットの中で探した。鍵の金属が指に冷たい。冷たいのも、今なら悪くない。


 誰かを正すより、場を整える。正しさはベルみたいに鳴らせるけど、鳴らさないやり方もある。通知が鳴らなくても、音は勝手に流れて、勝手に収まっていく。私は歩く速度を少しだけ落として、落ち葉の「ぱりっ」をもう一回だけ聞いた。

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