第26話 夜の散歩と通知ゼロ
通知を切るって、家の鍵を置いて出るみたいだ。
夏の夜、シャワーを浴びたあとでも身体のどこかがまだ熱い。タオルで髪を拭きながら、私はスマホを見た。画面の中は、今日の残りカスみたいな通知でいっぱいだった。仕事のチャット、家族のグループ、友だちのスタンプ、ニュース速報。全部が「今すぐ」を装って、でも本当に今すぐのものはほとんどない。
わかってる。わかってるのに、切れない。
私は玄関でスニーカーを履きながら、深呼吸した。夜の散歩に出る。理由は健康、気分転換、睡眠のため——いくらでも言える。でも本音は、ただ「止めたい」だった。頭の中のピロンピロンを。
スマホをポケットに入れて、そして止まった。今日は挑戦する日だ。通知を切る。通知オフ。完全なゼロ。
設定画面を開いて、通知を一括でオフにする。指が動く。動くのに、心がついてこない。私はボタンを押す直前で、スマホを握り直した。ガラスが汗で少し滑る。切るって、怖い。連絡が来たらどうする。何かあったら。何もなくても、見逃したら。見逃すと、怒られるかもしれない。怒られなくても、置いていかれるかもしれない。
私は結局、押した。
スイッチが灰色になった。画面が急に静かになる。静かすぎて、逆に耳が痛い気がした。私はスマホをポケットにしまって、外に出た。
夜の空気は生ぬるい。昼の熱をまだ引きずっている。でも、動いている。風が少しだけ肌を撫でる。マンションの廊下の蛍光灯が白くて、外に出ると暗さが優しい。暗いと、余計なものが見えなくなる。見えないと、少しだけ楽になる。
歩き始めると、最初の不安がすぐに来た。
通知が鳴らない。
当たり前なのに、身体が落ち着かない。ポケットの中が空洞みたいに感じる。スマホが震えないと、世界が止まっている気がする。止まっていないのに。脳が勝手に不安を作って、通知の代わりに鳴らす。ピロン、ピロン。幻の音。
私は信号待ちで、反射的にポケットに手を入れた。スマホを触る。触っても、何も起きない。触っても、世界が「私に用事」を投げてこない。それが怖い。用事がないと、存在価値がないみたいな錯覚に陥る。便利と承認がくっついてしまうと、こうなる。
道沿いの植え込みから、夜の草の匂いがした。昼に温められた土が、夜の湿気で少し膨らむ匂い。青くて、少し甘い。私はその匂いを吸って、鼻の奥がひんやりするのを感じた。ひんやりは、現実だ。通知より現実のほうが確かだと、体が知っている。
歩道を歩いていると、向こうから犬の散歩をしている人が来た。犬が鼻を地面に近づけて、丁寧に匂いを嗅いでいる。犬は通知がなくても忙しそうだ。忙しさの種類が違う。世界を読む忙しさ。
私は犬とすれ違って、思わず笑いそうになった。犬は誰にも急かされていないのに、ちゃんと進む。止まるときは止まる。進むときは進む。私のほうがよほど「予定表の犬」だ。
公園の脇を通ると、ベンチに人が座っていた。スマホの光が顔を照らしている。小さな劇場みたいだ。私はその光を横目に見て、そして目を逸らした。今はこっちに戻らない。戻るのは簡単だ。簡単なほうへ流れると、また同じ場所に戻る。
不安がふくらむ。ふくらんで、ピークに来る。来たとき、私は気づいた。
何も起きない。
事故も、緊急連絡も、世界の崩壊も起きない。夜道は暗いけど、街灯は点いている。コンビニは開いている。電車の音が遠くで聞こえる。世界は、通知を必要としていないみたいに普通に動いている。
その「何も起きない」が、じわっと安心に変わっていく。安心って、イベントじゃなくて継続なんだ。派手な出来事じゃなく、ただ何も起きない時間が積み重なること。
私は歩く速度が少しだけ落ちたのを感じた。落ちたというより、戻った。自分の足の速度に。通知があると、足も心も急ぐ。急ぐ理由がないのに急ぐ。今は、急ぐ理由が見当たらない。見当たらないことが嬉しい。
折り返しの角まで来て、私は一度立ち止まった。夜の草の匂いがもう一度濃くなる。近くの植え込みが、昼の熱を吐き出している。私はその匂いを吸って、吐いた。吐いた息は白くない。でも、少しだけ軽い。
帰り道、スマホは一度も鳴らなかった。鳴らないことが、だんだん当たり前になる。最初は怖かった無音が、後半は心地よくなる。人は音に慣れるし、音がないことにも慣れる。慣れは、体の味方にも敵にもなる。
家に戻って、玄関で靴を脱いだ。部屋の空気は、さっきより少し涼しく感じた。私のほうが熱を落としてきたからかもしれない。私はポケットからスマホを出して、机の上に置いた。すぐには通知を戻さなかった。
戻さなくても、世界は続いている。続いていた。続いているから、私は切れる。
私は小さくメモを残した。紙に、ペンで。
「夜は通知オフ」
習慣は、意志より環境の勝ちだ。勝ち負けじゃなく、調整の話として。明日また不安になるかもしれない。でも、今日の「何も起きない安心」を、体が覚えている。
夏の夜は生ぬるくて、でも動いている。通知がゼロでも、草は匂うし、犬は歩くし、私も歩ける。世界は相変わらず通知なしで進む。私はその進み方に、少しだけ自分の速度を合わせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます