Autumn🍂
第27話 GPSが連れていく別世界
地図アプリって、たまに私のことを試してくる。
出張の朝、スーツの内側に名刺入れが当たって落ち着かないまま、新幹線を降りた。知らない駅の改札を出ると、空気が違う。夏の湿気が抜けて、輪郭のある冷たさがある。秋の風は、肌の上で止まらない。背中を押すみたいに通り抜ける。
駅前でスマホを取り出し、目的地の会社名を検索した。地図アプリが青い点を表示して、「徒歩二十三分」と出す。二十三分なら、まあ歩ける。歩けるけど、余裕はない。初対面の打ち合わせに遅れるのは、胃に悪い。
私はイヤホンを耳にねじ込んで、音声案内をオンにした。
『200メートル先、右です』
言い切る声。あの無感情な言い切りが、今日は頼もしかった。私は言い切れる人が好きだ。自分が言い切れないから。
最初は順調だった。駅前の大通りを抜け、川沿いの道に入る。風が水面を押して、細かいさざ波が光っている。通学中の高校生が自転車で追い越していく。看板が少ない道。少ないから、アプリが頼りになる。
『次の角、左です』
私は曲がった。曲がった瞬間、景色が少し変わった。住宅の背が低くなる。畑が出てくる。畑の土が乾いていて、匂いがする。土の匂いは、都会ではたいてい広告に負けるけど、ここでは勝っている。
私の青い点は、まっすぐ進んでいる。まっすぐ進んでいるのに、道が細くなっていく。道というより、車一台が通れるかどうかの生活道路。私は一瞬だけ立ち止まった。
『100メートル先、目的地です』
目的地?
私は周りを見た。目的地になりそうな会社の建物はない。あるのは、畑と、古い倉庫と、民家と、自販機。自販機だけが現代の顔をしている。地図アプリの青い点は、倉庫の前で止まった。
……ここ?
私は画面を拡大して、もう一度住所を確認した。合っている。合っているのに、合っていない。こういう矛盾は、苛立ちの燃料になる。私は眉間に力が入るのを感じた。入ると、視野が狭くなる。狭くなると、ますます迷う。迷う人がやりがちな悪循環。
スマホの画面に、通知が一つ出た。会社のチャット。「到着したら連絡ください」。私はそれを見て、さらに焦った。世界が私を急かす。青い点も、通知も。
私は苛立ちをごまかすように歩き始めた。倉庫の横を通り、さらに奥へ。道はさらに細くなり、草が舗装の隙間から伸びている。スーツの靴で歩く道じゃない。私は自分の足元を見て、ため息をつきそうになって、飲み込んだ。ため息は音が出る。出ると自分が負けたみたいになる。何に負けたかは不明なのに。
『まもなく右です』
右。右に曲がった先は、行き止まりだった。行き止まりの突き当たりに、小さな神社があった。鳥居が低くて、木が近い。落ち葉がまだ少ないけど、乾いた葉が地面に貼りついている。秋が準備運動をしている感じ。
私は立ち尽くした。スマホの青い点は、確かに目的地にいる顔をしている。顔っていうか、点なんだけど。点のくせに自信満々だ。
「……ここじゃない」
私は誰にでもなく言った。言い切った。言い切らないと、このまま神社で打ち合わせをする羽目になる。
私は画面をぐるぐる回した。地図を回転させ、ルートを再検索し、現在地を更新する。更新しても、結果は変わらない。アプリは同じ言葉を繰り返す。言い切りの反復は、だんだん脅迫に近づく。
そのとき、神社の横の家から、犬の吠える声がした。続いて、玄関が開く音。出てきたのは、エプロンをつけた中年の女性だった。買い物袋を持っている。彼女は私のスーツ姿と、スマホを持って立ち尽くす姿を見て、首を傾げた。
「どうしたの?」
声が、柔らかい。柔らかいと、こちらの強張りが浮く。
「あの……すみません。会社に行きたくて。地図が……」
言い切れないまま説明すると、女性は私のスマホをちらっと見た。画面を覗き込む距離が近い。地元の距離だ。
「あー、それね。最近よくある。ここ、裏道に案内されちゃうのよ。大通り出たほうが早いのにね」
最近よくある。そう言うだけで、私の苛立ちが少しだけしぼむ。私のミスじゃない。アプリの癖だ。いや、アプリの癖を信じすぎた私の癖でもある。どっちも少しずつ。
女性は続けた。
「看板、見た? 青い看板。『工業団地→』って」
看板。副モチーフの看板が、ここで出てくる。私はさっきから画面しか見ていなかった。目が、青い点に吸われていた。現実の青い看板を見落として。
「見てないです……」
私が言うと、女性は笑った。笑いが責めじゃなく、生活の笑い。
「ほら、そこを戻って、一本目の角を左。で、コンビニの手前に青い看板あるから、それに従って。会社の門、でかいからわかるよ」
言い切らないけど、具体。具体は地図より信頼できるときがある。人間の案内は、地形の癖を知っている。GPSは座標を知っているだけで、癖は知らない。癖は生活が覚える。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。下げながら、少し恥ずかしかった。頼るのが遅い。遅いのに、頼ると楽になる。楽になるのが悔しい。悔しいけど、今日の目的は勝つことじゃなく着くことだ。
私は教えられた通りに戻った。神社の前の道を引き返すと、さっきより風が冷たく感じた。焦りが少し減ったからかもしれない。道の脇の金木犀の匂いがふっとした。まだ強くない。気配だけ。甘い匂いが、秋の「始まる」を知らせる。
コンビニの手前で、青い看板を見つけた。確かにあった。しかも、目立つ位置に。私は笑いそうになった。さっきの私は、どれだけ画面の中にいたんだろう。
看板に従って曲がると、急に道が広くなった。車が多くなり、工業団地らしい建物が並ぶ。目的地の会社の門が見えた。確かにでかい。でかいから、看板で十分だった。
私は到着の連絡をチャットに入れた。指が少しだけ落ち着いている。通知に追われている感じが薄い。
打ち合わせを終えて、帰りに駅まで歩きながら、私はスマホの地図を開いた。でも今度は、画面だけじゃなく周りも見た。店の看板、道の名前、バス停の位置。地図アプリは便利だ。でも便利は、目を奪う。奪われた目を、戻す練習が必要だ。
秋の風が、スーツの袖口から入って、手首を撫でた。金木犀の匂いがもう少し濃くなる。見えないのにわかる匂い。匂いはナビより正確なときがある。季節がここにいるってことを、ちゃんと教えてくれるから。
頼ることと、見ること。どっちか一つじゃなく、両方のバランス。私は駅の改札をくぐりながら、スマホをポケットにしまった。青い点がなくても、道はある。看板と風と匂いが、ちゃんと続いている。
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