第25話 アイスの当たり棒とおばあさん

 商店街の夏は、アイスの音でできている。


 冷凍ケースの蓋がガタンと開く音。レジのベル。風鈴。遠くで子どもが走るサンダルの音。私は会社帰りにその商店街を歩きながら、汗で背中に貼りついたシャツを肩甲骨のあたりで小さく引っ張った。引っ張ると少し空気が入る。空気が入ると、やっと自分が人間だと思える。


 今日は、なぜかアイスが食べたかった。夕立が来そうで来ない、あの湿った夕方。空は白くて、光が薄いのに暑い。気圧が低いと甘いものが欲しくなる——という説を、私は勝手に信じている。信じると、罪悪感が減るからだ。


 商店街の角の小さな駄菓子屋は、まだ開いていた。店の前にアイスのケースが置かれていて、上に「当たり出たらもう一本!」と手書きの札が貼ってある。文字が少し震えていて、気持ちがいい。機械印刷の「当たり」より、この震えのほうが当たりっぽい。


 私は冷凍ケースを開けて、ガリガリ君みたいな棒アイスを一本選んだ。レジの前に置くと、店番のおばあさんが顔を上げた。白髪をきれいにまとめていて、首にタオルをかけている。タオルの端が少し湿っている。夏の働く人の印。


「一本ね」


「はい」


 おばあさんは慣れた手つきで会計をして、アイスを渡した。私は袋はいらないと言って、そのまま外に出た。袋があると、溶けるのが遅い。でも今日は、遅いのが苦手な気分だった。早く甘さに救われたい。


 紙を破って、ひと口かじる。氷の粒が歯に当たって、舌が少しびりっとする。溶けていく甘さ。夏の甘さは、どこか急いでいる。


 私は歩きながら、棒を見た。印刷された文字。何もない。——と思った次の瞬間、棒の端に小さく「当たり」の文字が見えた。


 え。


 私は立ち止まって、棒を回して確認した。「当たり」。確かに「当たり」。私は思わず笑ってしまった。笑いが出ると、暑さが一瞬だけマシになる。


 店に戻ると、おばあさんが「どうしたの」と顔を上げた。


「当たり、出ました」


 私は棒を見せた。おばあさんの目が少しだけ輝いた。


「あら、やるじゃない」


 その言い方が軽くて、私はさらに笑った。褒められる年でもないのに、当たり棒で褒められると妙に嬉しい。私は二本目を選ぼうとして、冷凍ケースの前で少し迷った。


 おばあさんが言った。


「ほら、当たりはすぐ交換しないと。最近の子、写真撮って帰るけど、うちはだめよ」


 写真。ああ、そうか。SNSの時代だ。「当たり棒、出た!」って投稿するやつ。私は反射で言い返しそうになった。


「いや、写真くらい……」


 言いかけて、止めた。止めたけど、空気は止まらない。私の言いかけの切れ端だけが、店の中に落ちたみたいになった。


 おばあさんが私を見て、少しだけ眉を下げた。


「写真撮るの、悪いって言ってるんじゃないの。ね」


 言い切らない。続きがある言い方。私は耳を傾けた。耳を傾けると、自分の正しさの準備がほどける。


「この前ね、当たり棒の写真だけ撮って、棒を返さない子がいたの。『交換した』って言って、別の棒持ってきたりして。わたし、見分けつかないからさ」


 なるほど。世代差の「言葉」のズレだった。写真を撮ること自体じゃなく、写真が証拠っぽく使われること。証拠っぽいものが増えると、嘘も増える。便利は、嘘の道具にもなる。


 私は棒を握り直した。指先に、溶けたアイスのべたつきがついている。べたつきは、現実だ。現実は、証拠になる。


「……そういうことか」


 私が言うと、おばあさんは「そういうこと」と頷いた。頷き方がちょっと得意げだった。長く店をやってきた人の、静かな勝ち。


 私は二本目も同じアイスにした。さっきの甘さがちょうどよかったから。冒険しないのが今日は気持ちいい。


 おばあさんが棒を受け取って、引き出しの小さな箱に入れた。箱の中には、当たり棒が何本かたまっている。木の棒の山。小さな運の残骸。


「昔はね、当たりが出ると、子どもが走ってくるのよ。『見て見て!』って。今は静かね」


 おばあさんは言った。少し笑っている。寂しそうというより、時代の流れを眺めている顔。


 私はつい聞いてしまった。


「当たりって、儲かるんですか」


 言った瞬間、自分でも下世話だと思った。でも口が先に出た。おばあさんは一瞬私を見て、ふふ、と笑った。


「儲からないよ。儲からないけど、続けるの」


「なんで」


 おばあさんは少し考えてから言った。


「この商店街ね、昔はもっと人がいたの。子どももいた。今は減った。減ったけど、当たりがあると、たまに戻ってくるでしょ。『まだやってる』って」


 背景が一つだけ見えた。


 当たりは、利益じゃなく、灯り。


 おばあさんの時代の苦労——人が減る、店が減る、続ける理由が揺れる——その一つだけが、棒の箱の中に入っていた。私の時代の苦労は、たぶん逆だ。人が多すぎて、情報が多すぎて、何が本当かわからなくなる。どっちも疲れる。疲れるけど、種類が違う。


 私はうなずいて、二本目のアイスを受け取った。


「じゃあ、私、当たり出たってこと、ちゃんと見せびらかして帰ります」


 冗談めかして言うと、おばあさんが「見せびらかしてきな」と笑った。世代差の言葉は、こういうところで橋になる。正しさじゃなく、冗談で橋を架ける。


 店を出ると、商店街の風鈴がちりん、と鳴った。湿った風が吹いて、汗が少しだけ冷える。空の白さが、夕方に近づいている。私は二本目をかじった。甘さが一回目より少し薄く感じるのは、舌が慣れたからだろう。でもその薄さがちょうどいい。人生の二本目は、だいたいそういうものかもしれない。


 歩きながら、私はスマホを取り出した。写真は撮らなかった。代わりに、友だちに短くメッセージを送った。


『商店街の駄菓子屋で当たり出た。まだ当たりって制度、生きてた』


 送信。既読。返事はすぐ来ない。来なくてもいい。こういうのは、報告というより自分のメモだ。知らない世界が、ひとつ増えたっていう。


 アイスはどんどん溶ける。溶けるのに、私は急がなかった。溶けるって、終わりじゃなく形の変化だ。棒の周りの甘さが指に移って、べたつく。私はティッシュで拭きながら、少し笑った。


 知らない世界が増えるのは、怖い日もある。でも今日は嬉しい。溶けるアイスの甘さみたいに、すぐ消えるけど確かに残る。通知が鳴らなくても、商店街は続く。おばあさんも、当たりも、私の小さな運も。

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