第24話 ゴミ出し掲示板の炎上

 夏のマンションは、匂いが先に気配を知らせる。


 エレベーターを降りて廊下に出た瞬間、ほんのり生ゴミの匂いがした。甘くて酸っぱい、あの匂い。私は鼻の奥をきゅっと縮めて、息を浅くした。浅くすると、匂いは減るけど、気分も狭くなる。夏の生活は、だいたいそういうトレードだ。


 ゴミ置き場の前を通りかかると、掲示板のあたりに人だかりができていた。人だかりって、何も言わないのに「何かが起きている」とわかる。私はその輪の端に立って、掲示板を見た。


 貼り紙。


 しかも、匿名の。


 白いA4に太字で書かれている。


『ゴミ出しルール違反が続いています。非常識です。写真を掲示します』


 その下に、スマホで撮ったらしい写真が貼られていた。黒いゴミ袋。中身が透けて見える。生肉のパック、紙おむつ、何かのレシート。曜日の違う回収日表示の上に、堂々と置かれている。


 写真の横に、赤いペンで追記がある。


『防犯カメラで確認します』


 最後の一行が、やけに強い。強すぎて、逆に怖い。言葉って、強くすると安全になると思いがちだけど、たいてい空気は尖る。


 誰かが小声で言った。


「また?」


「やだね、ほんと……」


 別の誰かが「防犯カメラってここ映ってたっけ」と言う。そこから会話が少しずつ膨らむ。膨らみ方が、湿気みたいだ。夏の廊下は声がこもる。こもると疑心暗鬼が育つ。


 私は帰宅して、玄関で靴を脱ぎながらスマホを見た。管理組合の連絡アプリに通知が来ている。案の定、掲示板の話題だった。


『掲示板の張り紙見ました?』

『違反した人、特定してほしい』

『写真貼るのやりすぎでは?』

『ルール守らない人が悪い』


 正義が、強くなる。


 強くなると、誰かが傷つく——というより、誰もが少しずつ硬くなる。部屋の中にいても、廊下の空気がついてくる。私は通知をスクロールして、画面を伏せた。伏せても、世界は続く。続くけど、匂いはまだ残る。


 次の日、私は出勤前にゴミを出しに行った。朝のゴミ置き場は、まだ涼しいはずなのに、匂いが濃い。昨日より濃い。誰かがまた出したのだろう。私はゴミ袋を置きながら、無意識に周囲を見回してしまった。誰が? どこの部屋? そういう視線が生まれるのが、いちばん嫌だったのに。


 掲示板の前で、佐藤さん(同じ階の人)が立ち止まっていた。避難経路のときに「理由」を置いていった、あの佐藤さんだ。彼は貼り紙を見て、ため息をつくでもなく、ただ黙っている。黙っているのに、何かを考えているのがわかる。


「……嫌な空気ですね」


 私が言うと、佐藤さんは小さく頷いた。


「うん。嫌だね」


 短い。言い切らない短さ。でも、同意があるだけで少し楽になる。


 その帰り、私は廊下の角で、小さな声を聞いた。泣き声。赤ちゃんの泣き声。夏の朝の泣き声は、熱と一緒に膨らむ。私は足を止めた。泣き声のする方向は、二階の端の部屋——最近引っ越してきた若い夫婦のところだ。


 ドアの前に、黒いゴミ袋が置かれていた。


 写真と同じような袋。中身が少し透けて見える。紙おむつのパック。私は心臓がきゅっとなるのを感じた。これか。これなのか。疑心暗鬼が、急に形を持つ。形を持つと、正義はもっと走りやすくなる。


 でもそのとき、ドアが少しだけ開いて、中から女性が顔を出した。髪が適当に束ねられていて、目の下が少し影になっている。腕の中には赤ちゃん。赤ちゃんは泣いている。女性は片手で赤ちゃんを揺らしながら、もう片手でゴミ袋を持ち上げようとしていた。持ち上げようとして、落としそうになっている。赤ちゃんの泣き声が、彼女の動きを急かす。


 私は思わず声をかけた。


「……大丈夫ですか」


 言い切らない声で。驚かせないように。


 女性は私を見て、一瞬固まった。固まったあと、恥ずかしそうに笑った。


「すみません。ゴミ、今日じゃないの、わかってるんですけど……」


 わかってる。


 背景が、一つだけ見えた。


 わかってるのに、できない日がある。


 女性は続けた。言い訳じゃなく、生活の説明。


「夜中からずっと泣いてて、さっきやっと寝たと思ったらまた起きて……ゴミ出しの時間、間に合わなくて。部屋に置くと匂いがきつくて……廊下に出したらいけないのもわかってるんですけど」


 生ゴミの匂い。紙おむつの匂い。夏の匂いは逃げない。匂いは、誰かを追い詰める。


 私は彼女の手の震えを見た。震えは、責められることへの震えじゃなく、眠さと疲れの震えだった。赤ちゃんが泣いて、彼女は小さく「ごめんね」と言った。その「ごめんね」は赤ちゃんに向けたものだけど、世界全体にも向けているみたいだった。


 私は胸の中の正義の走り出しを、手で押さえた。押さえると、自分の中の尖りが少し引く。


「……よかったら、私、下まで持っていきます」


 私は言った。言い切った。言い切らないと、逃げ道を作ってしまうから。彼女は目を丸くして、すぐに「すみません」と言った。すみません、が多い人は、だいたいすでに十分頑張っている。


 私はゴミ袋を受け取った。重い。重いけど、これを一人で抱えている時間が彼女には長すぎる。エレベーターに乗りながら、匂いが少し強くなった。匂いは正直だ。正直な匂いに、私は妙に現実感を取り戻した。


 ゴミ置き場に袋を置いて戻ると、掲示板の前にまた人がいた。昨日の貼り紙を指さして、誰かが「特定すべき」と言っている。言葉が鋭い。鋭いのに、相手の顔が見えない。匿名が匿名を呼ぶ。


 私はスマホを取り出して、管理組合のアプリにメッセージを書いた。書いて、消して、書いた。


『ゴミ出し、ルールは大事だけど、困ってる人が相談できる窓口があるといいかも。夏は特に匂いで急ぐ事情もあるし。例えば、育児中など一時的に難しい時の相談先とか、ゴミの一時保管の工夫とか共有できたら』


 「育児中」という言葉を入れるのは迷った。特定につながらない程度に、背景だけ置きたかった。全部説明しない。説明すると、逆に誰かが特定を始める。私は送信して、スマホを伏せた。


 その日の夕方、また通知が来た。反応は半々だった。


『甘やかすとまた違反する』

『でも写真貼るのは怖い』

『相談窓口いいかも』

『ゴミ置き場に臭い漏れ防止の袋置けないかな』


 正義はすぐには柔らかくならない。でも、別の言語が混ざり始める。罰の言語だけじゃなく、段取りの言語。相談の言語。ルールは守るためにあるけど、守れない瞬間があることも含めて設計しないと、ただの武器になる。


 数日後、掲示板に新しい紙が貼られた。今度は匿名じゃなかった。管理組合名義。


『ゴミ出しルールの再周知/困りごと相談窓口の案内』

『夏季は臭い対策として二重袋・消臭袋の利用推奨』

『事情があり難しい場合は、管理人室へご相談ください(匿名相談可)』


 言葉が、少し柔らかい。写真はない。脅しもない。代わりに具体がある。具体は、人を救う。救うとき、誰かを吊るし上げない。


 私はゴミを出しに行って、帰りに廊下の風を感じた。夕方の風はまだぬるいけど、動いている。生ゴミの匂いも、完全には消えない。でも、匂いの上に「相談」という空気が少し乗っている気がした。尖りが一ミリ丸くなる。


 通知が鳴らなくても、掲示板が燃えなくても、夏は進む。進むから、私たちはその中でルールと生活の間の道を作る。完璧じゃないけど、今日は少しだけなめらかだ。

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