第23話 ペットの賢さが刺さる日

 猫は、たぶん私より要領がいい。


 夏の夜、窓を少し開けると、外の湿った空気がすべって入ってくる。遠くで誰かのテレビの音が薄くして、近くでは虫の声がする。エアコンはつけているけど、設定は弱め。風が直接当たると、猫が機嫌を損ねる。私は猫に合わせて暮らしている。合わせていること自体は嫌じゃない。嫌じゃないのに、たまにそれが刺さる。


 うちの猫、ミロは器用だ。


 器用というより、「最短で快適を取る」能力が高い。段ボールを置けば、数秒で入って丸くなる。カーテンの隙間から風が入れば、そこに鼻先を置く。私がスマホを見ていると、画面のど真ん中に顔を差し込む。邪魔、じゃなくて参加。参加の仕方が堂々としている。


 その夜、私はキッチンで麦茶を作っていた。氷を入れたピッチャーを冷蔵庫に戻そうとして、ドアに肘が当たって、ガタンと音がした。小さな音。小さな音なのに、心の中で「またやった」が大きく鳴る。


 私は最近、細かい失敗が多い。洗濯物を干し忘れる。買った牛乳を玄関に置きっぱなしにする。コンビニで箸をもらったのに、家に割り箸が山ほどある。ミスが生活の端から端へ飛び火して、疲れの上に積もっていく。


 冷蔵庫の前で、私はピッチャーを持ったまま動きを止めた。そこへミロがすっと来て、足元を抜けた。しっぽが私のふくらはぎに当たる。柔らかい毛。生き物の温度。


 ミロは冷蔵庫の前に置いてある水皿を見て、いったん立ち止まり、前足で皿をちょん、と押した。皿の位置が数センチ動く。床にこぼれるギリギリじゃなく、ちょうど飲みやすい位置へ。彼はそのまま水を飲み始めた。


 ……なんでそんなに上手いの。


 私はピッチャーを冷蔵庫にしまいながら、ミロの動きを見た。無駄がない。迷いがない。自分の喉が乾いていることを知っていて、乾いているときに飲む。私は喉が乾いているのに、後回しにして、気づいたら頭痛になっている。猫のほうが自分の体の取り扱いが上手い。


 その比較が、刺さった。


 刺さると、脳はすぐに話を大きくする。


 私は不器用だ。

 要領が悪い。

 だから仕事も、生活も、うまくいかない。

 ちゃんとしてる人は、こんなに何度もドアに肘ぶつけない。


 思考が、通知みたいに鳴る。ピロン、ピロン。止め方がわからない。私はテーブルの上に置いたレシートの束を指でいじった。湿った角が指に貼りつく。買ったものの証拠だけが積み上がって、ちゃんと暮らしている証拠にならない。


 ミロは水を飲み終えると、何事もなかったように歩き出した。尻尾を立てて、ソファへ。ジャンプ。着地。小さく丸くなる。世界が快適に整っている前提で動いている。整っていないときは、鳴けばいいと思っている。鳴けば、だいたい人間が整える。賢い。賢すぎる。私は急にミロがずるいと思って、そしてそんなふうに思う自分がさらに嫌になった。


 「……ミロ、ずるい」


 私は小さく言った。猫に向かって言っても意味がないのに。意味がないことを言いたくなるのが、疲れだ。


 ミロは目を細めただけで、返事はしない。返事がないのに、そこにいる。既読にもならない沈黙。沈黙って、たまに優しい。


 私はソファの端に座り、頭を抱えた。抱えると、額の汗が掌に移る。夏の夜は、思考も汗をかく。湿った自己否定は、乾きにくい。


 そのとき、ミロが起き上がった。


 何かを見つけたように、床を見下ろしている。私はつられて視線を落とした。ソファの下に、ミロの小さなおもちゃ——ねずみの形のやつ——が転がっていた。ミロは前足を伸ばして、それを取ろうとした。


 伸ばす。


 届かない。


 もう少し。


 届かない。


 ミロは一瞬固まって、次に、勢いよく前足を突っ込んだ。ソファの下の埃が舞う。ねずみは、予想外の方向へすっと飛んで、さらに奥へ行った。


 ミロの動きが止まった。


 目だけが、ねずみの行方を追っている。


 そして、ミロが小さく「にゃ」と鳴いた。鳴き方が、いつもより短い。言い切らない鳴き方。失敗した、って顔。


 私は思わず笑った。


 声が出た。ちゃんと出た。笑いって、意識より先に出ることがある。出たあとで、「今笑っていいんだ」と気づく。ミロの失敗は、かわいい。かわいいのに、そこに救いがあるのはずるい。


 ミロは私を見た。目が少し丸い。責められると思っている顔じゃない。助けてくれるのが当然だと思っている顔。期待が堂々としている。私はその堂々さに、さっきまでの自己否定が少しバカみたいに感じられた。


 私は床に膝をついて、ソファの下に手を入れた。埃が指に触れる。ねずみのおもちゃをつまんで引っ張り出す。ミロに渡すと、彼は何事もなかったようにくわえて、誇らしげにソファの上に戻った。失敗を一秒で忘れる才能。


 「ねえ、今の、だいぶ下手だったよ」


 私は言った。言い切らないように笑い混じりで。ミロはしっぽを振った。反省のしっぽじゃない。次いこう、のしっぽ。


 その瞬間、背景が一つだけ見えた。


 賢いと思っていた猫も、普通に失敗する。


 失敗しても、世界は終わらない。

 失敗しても、猫は猫だ。


 じゃあ、私がドアに肘をぶつけても、私は私だ。失敗が私の人格を決めるわけじゃない。決めるのは、せいぜい肘の青あざくらい。


 私は立ち上がって、キッチンへ戻った。コップに麦茶を注いで、氷を入れた。氷がカラン、と鳴る。夏の音。私はそのまま飲んだ。喉がちゃんと潤う。潤うと、さっきまでの思考の湿気が少しだけ軽くなる。湿気はなくならない。でも、風が通る。


 テーブルのレシートの束を、まとめて引き出しに入れた。捨てない。捨てられない日もある。今日はしまうだけ。できない自分に、許可を出すみたいに。完璧に片づけるんじゃなく、散らかりの形を変える。


 ミロはソファの上で、ねずみを前足で押さえながら、目を細めている。外からは虫の声。遠くのテレビの音は消えた。夜が静かになっていく。静けさは、頑張らなくても来る。


 通知が鳴らなくても、世界は続く。ミロが失敗しても、私が不器用でも、夏の夜はちゃんと更ける。私はコップの水滴を指でなぞって、少しだけ笑った。今日の私は、猫ほど器用じゃない。でもそれで、いい。

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