第22話 熱中症っぽい、の言いづらさ

 外回りの予定表は、だいたい人間の体温を考えていない。


 午前、取引先A。移動。午後、取引先B。移動。夕方、社内に戻って報告。隙間の「移動」に、夏が全部詰まっている。私はスマホのカレンダーを見ながら、駅のホームで息を吐いた。吐いた息が、白くないのが腹立たしい。白くないのに暑い。理不尽。


 改札を出た瞬間、白い日差しが顔に当たった。夏の光は、色じゃなく圧で来る。ビルのガラスが反射して、目が細くなる。スーツのジャケットの内側がすでに湿っている。私はネクタイをほんの少しだけ緩めた。たったそれだけで、罪悪感が湧くのが会社員だ。誰に対しての罪かは不明。


 先輩の遠藤さんと並んで歩く。遠藤さんは歩くのが速い。速いというより、迷いがない。迷いがない人の歩幅は大きい。私はその後ろで、遅れないように足を出しながら、水分のことを考えていた。


 ペットボトルは持ってきた。朝、コンビニで買った。冷たいお茶。今はもうぬるい。ぬるいお茶を飲むと、飲んだ気がしない。飲んだ気がしないけど、飲まないよりはいい。そういう「まし」を積み重ねるのが、外回りだ。


 取引先Aでの打ち合わせは順調だった。エアコンが効いていて、天国みたいだった。冷気が肌に当たると、私は自分が汗でできていることを思い出す。汗は熱を運んで、冷気で冷える。体って、理科の授業みたいだ。


 問題は、そのあとの移動だった。


 建物を出た瞬間、熱気が襲ってきた。襲ってくるって言葉がぴったりの温度。私は一歩目で「あ、やばい」と思った。足元がふわっとする。地面が少しだけ遠い。遠いのに、アスファルトの熱は近い。矛盾。


 でも私は言えなかった。


 「ちょっと休みましょう」と言えばいいだけなのに、言葉が喉で止まる。弱音=迷惑。そういう思い込みが、スーツの内側で汗みたいに張りついている。言ったら、予定がずれる。予定がずれたら、誰かに迷惑。迷惑をかけたら、評価が下がる。評価が下がったら、今までの努力が全部……。


 脳が勝手に、通知みたいに未来の不安を鳴らす。ピロン、ピロン。


 スマホが震えた。次の取引先Bの住所と、地図のリンク。リマインド。予定が私を急かす。私は画面を見て、指でスクロールして、閉じた。予定の文字が眩しい。眩しいのは日差しだけで十分だ。


 遠藤さんが振り返って言った。


「大丈夫? 顔、赤い」


 私は反射で笑った。


「大丈夫です。暑いですね」


 暑いですね、は便利だ。体調の話を天気の話にすり替える。天気なら誰も責任を取らなくていい。でも今は、責任を取るべきは私の体だ。


 歩きながら、私はペットボトルを飲んだ。喉がすでに乾いているのに、水が入っていく感じがしない。口の中が熱い。汗が背中を伝う。視界が少しだけ揺れる。信号の音が遠い。


 「熱中症っぽい」って、言いづらい。まだ倒れてないから。救急車を呼ぶほどじゃないから。だからこそ言いづらい。まだ大丈夫のうちに言うのが正しいのに、まだ大丈夫のうちに言うのが難しい。人間のバグ。


 交差点で、遠藤さんが急に立ち止まった。


「よし、休憩」


 言い切った。言い切ると、世界が止まる。私はそれがありがたかった。


 遠藤さんはコンビニに入って、迷いなくスポーツドリンクと塩タブレットを買った。レジの前で、「これ、経費にしよ」と軽く言う。軽いのに、強い。会社の文化がそこにある。休むことを隠さない人がいると、休むことが仕事になる。


 外のベンチに座る。日陰。ありがたい。私は座った瞬間、膝が少し笑った。笑うな、膝。今は真面目に支えてほしい。


 遠藤さんが言った。


「この暑さ、無理すると事故る。事故ったら一日どころか一週間飛ぶ。休むのが一番早い」


 背景が、一つだけ見えた。


 休むことは、遅延じゃなく段取り。


 遠藤さんが先に休む姿で、文化が見えた。強い人ほど、休み方がうまい。弱音じゃなく技術として休む。私はその視界を、初めて自分のものにできた気がした。


 私はスポーツドリンクを一口飲んだ。冷たさが喉を通って、身体の中で「戻る」感じがした。戻るって、こういうことか。私は自分の手のひらを見た。汗で少し湿っている。湿っているけど、震えてはいない。まだ戻れる。


「……すみません。ちょっと、熱中症っぽいです」


 私は言った。言い切らないで言おうとしたけど、言い切ったほうが良かった。曖昧にすると、また我慢の道に戻るから。


 遠藤さんは「いいよ」と短く言った。短いのに、責めがない。


「じゃあ、Bに電話しよ。遅れるって。で、こっちの道は日陰通る。水、もう一本買っとくか」


 段取りが整っていく。段取りが整うと、罪悪感が薄くなる。迷惑をかけているんじゃなく、調整しているだけだと思える。世界は、調整でできている。


 私は取引先Bに電話をした。声が少し掠れた。掠れた声で謝るのは、なんだか申し訳なさが増幅される。でも、電話口の相手は「大丈夫ですよ」と言った。相手も人間だ。人間は、予定表じゃない。


 ベンチの上で、私はタブレットを一粒舐めた。塩の味が強くて、少し笑いそうになる。子どもの頃のプールみたいな味。夏はいつも塩味がする。


 十分休んで、私たちは歩き出した。日陰の道は、同じ暑さでも少しだけマシだった。マシを選ぶ。それが今日の学びだ。私はスマホの予定表を開き、移動の隙間に「給水」と「日陰ルート」とメモした。通知のための予定じゃなく、体のための予定。


 社内に戻ってから、私はチームのチャットに一言書いた。


『外回りのとき、暑さで休憩入れました。今後は移動ごとに水分休憩、先に予定に入れます』


 宣言。宣言すると、文化にできる。自分の体調を「個人の弱さ」から「共有の段取り」に移す。移すと、誰かが次に言いやすくなるかもしれない。


 帰り道、夕方なのに日差しはまだ白かった。白い光が、道路の上で揺れている。私はその光を見て、今日は世界に勝った感じではなく、世界と折り合えた感じがした。


 通知が鳴らなくても、予定がずれても、世界は続く。続くから、倒れないための休憩を、ちゃんと予定に入れる。夏の白い日差しの下で、私はそれを覚えた。

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