第15話 夏祭りの第三者席

 夏祭りの人混みは、音だけでできているみたいだった。


 太鼓のどん、どん。屋台の鉄板がじゅう、と鳴る音。ビールの缶が開くぷしゅ。笑い声が波みたいに寄せて、引いて、また寄せる。私はその波の中を、流されないように歩いていた。浴衣じゃない。普通のTシャツとスカート。夏祭りに来たのに、どこか「仕事帰りの延長」みたいな格好だ。


 スマホが震えた。通知。友だちのグループチャットで「今どこ?」と来ている。私は画面を見て、返さずにポケットへ戻した。今日は、返信よりも氷の入ったラムネのほうが優先だ。


 神社の参道に近づくと、空気が熱くなる。人の体温と、提灯の熱と、揚げ物の匂い。夏は匂いが濃い。汗の匂いも、香水も、焼きとうもろこしも、全部が同じ高さで鼻に来る。


 私は金魚すくいの前で足を止めた。水槽の水面が、提灯の光をゆらゆら反射している。ここだけ少し涼しそうで、実際は全然涼しくない。涼しさって、だいたい視覚の錯覚だ。


「すみません!」


 肩を軽く叩かれて、振り向いた。浴衣のカップル。彼女はピンクの浴衣で、帯がきれいに結ばれている。彼は紺の浴衣で、うちわを持っている。二人とも、汗をかいているのに楽しそうだ。楽しそうって、汗と相性がいいんだな、と変なことを思う。


「写真、撮ってもらえますか」


 ああ、あれだ。祭りの第三者席。突然、他人の一枚の中に雇われる役。


「……はい」


 私はスマホを受け取った。画面にはすでにカメラが起動していて、二人の顔が反射で薄く見える。私は構図を整えようとして、すぐ気づいた。二人が揉めている。


「だから、もっと寄って」


「寄ってるよ、暑い」


「暑いのはみんな暑いじゃん」


「それ言うのずるい」


 会話が短くて、言い切らない。言い切らないくせに刺さる。私はスマホを構えたまま、どこに目を置けばいいかわからなくなる。撮る側って、急に透明になりたい。


「……仲、いいですね」


 口から出たのは、当たり障りのない一言だった。自分で言って、自分に呆れる。評論家か。知らない人に評論。


 彼女が私を見て、少し笑った。


「今、どっちが悪いと思います?」


 同意を求められた。突然、裁判が始まる。私は心の中で「いや、第三者席はそこまでの権限がないです」と叫んだ。叫べないから、笑ってしまった。


「え、えっと……写真は、どっちも可愛く……」


 何の判定にもなっていない。私の言葉は、綿あめみたいに形があるふりをしてすぐ溶ける。彼が「逃げた」と笑って、彼女も「逃げたね」と言う。気まずさが、可笑しさに変わる瞬間がある。祭りの魔法は、こういうところで働く。


「じゃあ、いきますね。せーの……」


 私はシャッターを押した。カシャ。二人の笑顔が、画面に残る。残ると、ほんの少しだけ安心する。証拠ができるからだ。人間は写真に頼りすぎる。


「もう一枚、お願いします!」


 彼女が言う。私は頷いて、また構える。二人は今度は寄った。寄ったら寄ったで、彼が「ほら、暑い」と言って、彼女が「暑いけどいい」と言う。そこに「いい」が出ると、空気が柔らかくなる。いい、は便利な言葉だ。たまに世界を救う。


 でも私は、だんだん笑えなくなってきた。人混みの音が、耳の奥で厚くなる。太鼓のどん、どんが、心臓の鼓動と重なる。屋台の呼び込みの声が、仕事のチャットの通知みたいに聞こえる。情報量が多すぎて、脳が汗をかく。


 私はスマホを返した。


「……こんな感じで、大丈夫ですか」


「最高です!」


 彼女が言って、彼も「ありがとうございます」と頭を下げた。その礼がまっすぐで、私は少し救われた。第三者席にも、ちゃんと出口がある。


 二人が去っていく背中を見送って、私は立ち止まった。立ち止まると、音の波がいっそう押し寄せる。動いているほうが、まだましだ。夏祭りは、止まると溺れる。


 私は自分の手のひらを見た。さっきまで他人のスマホを握っていた手。汗で少し湿っている。ポケットの中の自分のスマホも、同じように湿っているだろう。通知がまた震えた。写真の共有かもしれない。友だちからの「今どこ?」かもしれない。私は見なかった。見ても、今の私は返せない。返す体力がない。


 そのとき、やっと気づいた。


 疲れている。


 暑さだけじゃない。仕事の疲れが、夏の熱に溶けて、ここまで持ってきてしまっている。平日の自分が、そのまま祭りに混ざっている。だから眩しい。浴衣の二人が眩しいんじゃなくて、私の目が疲れているだけだ。


 妬んでるのかも、と一瞬思った。思って、すぐやめた。妬みは、気づくともう半分終わっている。終わっているというか、扱える形になる。扱える形になれば、調整できる。


 私は参道の端に寄って、神社の石段の下の影に入った。影は少しだけ涼しい。錯覚じゃない涼しさ。石が昼の熱をまだ持っていて、そこに夜風が触れている。


 息を吸う。焼きとうもろこしの甘い匂い。綿あめの砂糖。浴衣の布の匂い。新しい布と、汗と、少しだけ柔軟剤。夏祭りの匂いは、生活の匂いが集まってできている。


 私は小さく息を吐いた。吐くと、肩が一ミリ下がる。


 他人の眩しさは、私を刺すために光っているわけじゃない。光っているのは、ただ祭りだから。祭りは勝手に明るい。通知がなくても、提灯は点く。太鼓は鳴る。カップルは揉めて、笑って、写真を撮る。


 私はスマホを取り出して、写真を撮らなかった。代わりに、空を見た。提灯の光の間に、黒い夜がある。夜はちゃんと暗い。暗さがあるから、明るさが眩しいだけで済む。


 帰り道、駅へ向かう人の流れに乗る。肩がぶつかりそうになるたびに、誰かが「すみません」と言う。短い「すみません」が、波の中の呼吸みたいに聞こえる。私は自分も小さく「すみません」と言って、笑った。ここでも第三者席だ。


 ホームに着くと、汗が背中を伝っていた。浴衣の布の匂いが、まだ鼻に残る。私はベンチに座って、風が来るのを待った。風は来る。来ない日もあるけど、今日は来た。終電前の電車の風。人工の風でも、風は風だ。


 通知を見なくても、世界は続く。祭りも、カップルも、私の疲れも。続くから、私は妬まない練習として、ただ一回、息をついて帰る。小さく。誰にも見えないくらい。汗の匂いと一緒に。

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