第16話 自販機の“当たり”と小さな罪

 夏の夕方、会社の最寄り駅までの道は、アスファルトがまだ熱い。


 ビルの谷間を抜ける風はぬるくて、汗を乾かすというより汗の存在感を増やす。私はバッグの持ち手を握り直しながら、自販機の前で足を止めた。いつも通る道なのに、今日はなぜか「冷たいもの」が強く私を引っ張った。暑さって、人を単純にする。


 自販機の前には、小さな列。列といっても三人くらい。私は最後尾に立って、表示のライトをぼんやり眺めた。炭酸、水、スポーツドリンク。どれも「今の私」を想定して作られている感じがする。便利って、心を読んでくる。


 順番が来て、私は迷わず冷たいお茶を選んだ。ガチャン、と落ちる音。取り出し口から缶を引き上げると、指先がひやっとする。夏の幸福は、だいたい温度差だ。


 プシュ、と開けた。ひと口飲む。喉が少しだけ生き返る。


 次の瞬間だった。


 ピカッ、と自販機の小さなランプが光って、電子音が鳴った。


『当たり! もう一本!』


 え。


 私は一瞬、周りを見た。誰かに見られていないか、というより、世界がちゃんとこの出来事を承認しているか確認したかった。自販機の「当たり」は、突然すぎて、現実味が薄い。宝くじより唐突に幸福が来る。


 画面に「もう一本押してください」の表示。私の胸の奥に、小さな火が灯る。欲望の火だ。小さいけど、燃え方が速い。


 私はもう一本、何を押そうか考え始めた。お茶? せっかくだから炭酸? いや、家に帰ってから飲むなら水? 考えているうちに、欲は少しずつ膨らむ。「当たり」という言葉は、選択肢を増やしてくる。


 その火に、別の火が混ざった。


 ——小細工、できないかな。


 例えば、当たりの表示が消える前に、誰かに渡すふりをしてもう一本以上……とか。そんなこと無理だと頭ではわかっているのに、「抜け道」が先に浮かぶ自分が嫌だった。嫌なのに、浮かぶ。浮かぶだけで、もう少し自分が汚れた気がする。


 私は画面の「押してください」を見ながら、指を宙に止めた。止めた指先が、缶の水滴で湿っている。水滴は透明なのに、罪悪感は透明じゃない。透明じゃないのに、周りには見えない。見えないから余計に厄介。


 後ろで、誰かが小さく咳払いをした。列ができている。急がなきゃ。急ぐとき、人は判断を雑にする。私は雑になりたくなくて、でも雑にしたくなる自分もいる。夏の熱で、頭が蒸れている。


「すみません、当たり出たんですか」


 声がして振り向くと、後ろに親子がいた。小学生くらいの男の子が、こちらを見上げている。手には小さな財布。目が、まっすぐだった。まっすぐすぎて、逃げ道がない。


「……はい」


「いいなー」


 男の子は言い切った。羨ましい、って言葉を回り道しない。羨ましいって、こういうふうに素直に言うと、きれいになるんだなと思う。


 母親が「順番待ってね」と小声で言う。男の子はうなずいて、また私の手元を見る。その視線が刺さる。刺さるのは責められているからじゃなく、こちらが勝手に後ろめたいからだ。


 男の子が、ふっと言った。


「当たりは、もう一本だけだよね」


 確認みたいな口調だった。教科書の答え合わせみたいに、当然のことを言っただけ。それだけなのに、私は胸の中の小細工の火がしゅっと縮むのを感じた。


 背景は、その一言で十分だった。


 正直さは、説教しない。まっすぐ置かれるだけで、こちらの歪みが見える。


 私は画面に向き直って、指を動かした。もう一本は、同じお茶にした。冒険しない。今日は冒険しないほうが気持ちいい。ガチャン、ともう一度落ちる音。取り出し口から缶を引き上げると、今度はひんやりが二倍で、少し笑いそうになる。


 私は振り向いて、男の子に見せるように言った。


「ほんとに、もう一本だけだった」


 自分でも変な報告だと思う。でも報告したかった。正当に使った、と世界に言いたかった。世界というより、自分に。


 男の子がにっと笑った。


「やったね」


 それがスタンプみたいに胸に貼られた。「やったね」って、得をしたときの言葉じゃなく、ちゃんとしたときの言葉にもなるんだ。


 私は二本目の缶をバッグに入れた。缶の冷たさがバッグの布に移って、じんわり冷える。冷えると、頭の蒸れも少し引く。得をしたことより、気持ちよさを選べたことのほうが、喉より先に身体に効いた。


 自販機の横には、小さなゴミ箱があって、そこにレシートのような紙片が何枚か覗いていた。たぶん別の人が捨てたコンビニのレシート。数字が並んでいる。私はそれを見て、ふと思った。


 得と損は、数字で測れる。でも、気持ちよさは測れない。測れないけど、手のひらに残る。今日みたいに、冷たい缶の温度として。


 親子が自販機に向かうのを、私は少しだけ端によけて見送った。母親が硬貨を入れ、男の子がボタンを押す。ガチャン。男の子が「あっ」と声を上げる。落ちた缶の音に、未来の期待が混ざっている。


 私は歩き出した。空が少し暗くなってきて、風が変わった。夕立前の匂い。土が濡れる前の、あの生暖かい匂い。遠くで雷が鳴った気がする。気がするだけで、もう空気がざわっとする。


 スマホがポケットで震えた。通知。私は見なかった。見なくても、雨は降る。降って、止んで、また蒸す。世界はそういうふうに続く。


 バッグの中で、当たりの二本目が小さく冷えている。私はその冷たさを、今日の小さな罪が溶けた証拠みたいに思って、少しだけ息をついた。

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