第10話 レシートの告白
コンビニのレシートって、温かい。
印刷されたばかりの紙を指でつまむと、じんわり熱が移る。あの熱が、ちょっとだけ「買ったこと」を肯定してくれる気がして、私は捨てられない。捨てられないくせに、あとで見て苦しくなる。だいたい、そういうものに私は弱い。
夜のコンビニは明るすぎて、春の闇が薄く見える。自動ドアが開くと、外の湿った空気が一瞬だけ入って、すぐ蛍光灯に乾かされる。私はカゴを持たずに棚の間を歩いた。カゴを持つと、買い物が増えるタイプだから。自分の癖を、これでも一応知っている。
買ったのは、豆乳と、サラダと、ついでの新商品のお菓子。ついで、が多い夜ほど、レシートが長くなる。私はレジで支払いをして、店員さんが「レシートご利用ですか」と聞く前に、もう言ってしまった。
「……ください」
言い切って、ちょっと恥ずかしくなる。別にレシートが必要な買い物じゃないのに。確定申告もしない。経費にもならない。なのに「ください」と言うと、何かを証明している感じになる。
ピッ、とポイントの通知が鳴った。スマホがポケットの中で震える。
『ポイント付与:12pt』
『あと◯◯ptでランクアップ』
数字が、優しく肩を叩いてくる。叩いてくるのに、だんだん腕を掴んでくる。
私は家に帰って、バッグの中のレシートを机の端に置いた。端に置くと、視界の端に残る。残ると、見たくなる。見たくなると、見ない自分が落ち着かない。結局、私はレシートを広げた。
数字が並ぶ。日付、時間、商品名、金額。合計。支払方法。ポイント。
私は合計金額のところを指でなぞって、ふっと息を吐いた。今月、いくら使ってる? 先週より増えてる? 減ってる? 損してる? 得してる? レシートは生活の足跡のはずなのに、いつの間にか裁判の証拠みたいになる。
次の日も、その次の日も、私はレシートを捨てずに溜めた。財布の隙間、ポケット、バッグの内ポケット。紙が増えるほど安心する瞬間がある。安心って、変な形をしている。
でも安心はすぐ濁る。紙が増えると、数字が増える。数字が増えると、頭の中で会計が始まる。
「これ、買わなくてもよかった」
「昨日も同じの買ってる」
「ポイント、逃した」
「キャンペーン、終わってた」
損得の言葉は、刃がついている。相手は自分なのに、荒れる。荒れると、余計に何か買って落ち着こうとする。数字に支配されて、数字で解決しようとする。これ、どこかで見た。地獄って、だいたいループだ。
ある夜、私はまたコンビニでポイントの通知を鳴らして、レシートを受け取って、帰り道に急に嫌になった。紙を握りつぶしたくなる。握りつぶしたら、数字が消える気がする。でも握りつぶしても、買った事実は消えない。むしろ、自分が乱暴になった事実だけ増える。
そのまま駅前の小さなカフェに入った。深夜じゃないのに、店内は静かだった。春の夜は、外が騒がしいのに、室内はひっそりしている。私は席につくなり、机の上にレシートを並べた。おみくじみたいに。凶が多い。
そこへ友人の莉子が来た。待ち合わせていたわけじゃない。偶然。偶然って、仕組みの外側にある感じがして、少し好きだ。
「なにそれ」
莉子が私の前の紙の山を見て言った。私は苦笑いで答えた。
「レシート……捨てられなくて。なんか、数字見ると落ち着くような、荒れるような」
「数字で荒れる、わかる」
莉子はコーヒーを受け取って、椅子に座った。カップの湯気が、彼女の前髪を少し揺らす。
「私さ、前にしんどい時期あったじゃん」
私はうなずいた。詳しくは聞かなかったけど、彼女がしばらく元気がなかった時期。授業も休みがちで、返信も遅くて、でもたまにスタンプだけ送ってくれた。
「そのときね、数字が味方だったんだよ。歩数とか、体重とか、貯金額とか。今日も生きた、って思えるのが数字しかなくてさ」
莉子は笑うでもなく、淡々と言った。淡々が、逆に重い。私はレシートの紙を指で撫でた。紙の角が少し立っている。立っているものは、触ると痛い。
背景が、ひとつだけ見えた。
数字は、自己肯定だった。
私にとっては敵になりかけているものが、彼女にとっては支えだった時期がある。そう思うと、数字そのものが悪いわけじゃないのだと、やっと腑に落ちる。道具は、使い方で顔が変わる。ミュートみたいに。
「だからさ、奏が数字見ちゃうの、責めなくていいと思う。落ち着きたいんだよね」
莉子の「落ち着きたい」が、私の胸の真ん中に当たった。そうだ。私は損したくないんじゃなくて、落ち着きたいだけだ。疲れていて、余白がなくて、数字なら把握できる気がする。把握できるものにしがみつく。そういう夜がある。
私はレシートの山をひとつにまとめて、端を揃えた。揃えると少しだけ整う。整うと、怒りが薄くなる。
「……じゃあ、数字の使い道、決めればいいのかも」
口に出すと、少しだけ現実味が出た。莉子が頷く。
「うん。毎日見なくていい。週一とかでいいじゃん」
週一。急に、数字が遠ざかる。遠ざかると、呼吸が入る。
家に帰って、私は空き箱をひとつ用意した。靴下が入っていた小さな箱。そこにレシートを入れる場所を作る。「レシート箱」。ネーミングセンスはない。でも名前があると、迷子になりにくい。
スマホのポイント通知も設定を変えた。「付与の通知」はオフ。「失効前だけ知らせる」にする。数字をゼロにするんじゃなくて、用途を決める。数字を敵にしないための、こっちの工夫。
週に一度、日曜の夜だけ、箱を開ける。合計を見るのは一回。気づいたことがあったら、メモに一行だけ書く。「お菓子多め」とか、「外食少なめ」とか。反省会じゃなくて、観察。観察なら、刃物になりにくい。
その夜、コンビニで受け取ったレシートを、私はすぐ箱に入れた。紙はまだ温かかった。温かいまま、蓋を閉める。熱が閉じ込められて、少しだけ落ち着く。
窓を開けると、春の夜風が入ってきた。雨の名残の湿り気と、遠くの花の匂い。レシートの熱は、箱の中でゆっくり冷めていく。冷めるのは悪いことじゃない。生活の熱が、ちゃんと次の朝に引き継がれるだけだ。
通知が鳴らなくても、世界は続く。数字が動かなくても、私も続く。続くから、週一回だけ、箱を開ければいい。今日は閉めて、風を入れて、眠る。
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