第9話 マスクの下の表情

 マスクって、顔を隠す道具のはずなのに、逆に「見えなさ」を増やす。


 夕方のバイト先は、駅前の小さなベーカリー併設カフェだ。焼きたてのパンの匂いが、エプロンの胸元にまで染みる。春の外気はまだ少し冷たいのに、店内はオーブンの熱でふんわりあたたかい。ガラス越しの夕日が、カウンターの木目を橙色にしている。


 私はレジ前に立って、マスクの紐を耳の後ろでこっそり直した。紐が当たる場所が、日によって微妙に痛い。こういう一ミリの違いが、接客のテンポを狂わせる。


「いらっしゃいませ」


 声を出す。声だけが顔になる。そう思って、少しだけ明るめに。


 次のお客さんは、スーツの男性だった。片手にスマホ。もう片手はポケット。目だけがこちらを見る。目は見える。口元はマスクで隠れる。だから私は、目の情報を過剰に読む。


 “急いでる”

 “機嫌が悪い”

 “私、邪魔?”


 勝手な字幕が頭の中に出る。字幕って、たいてい大げさだ。


「こちら、温めますか」


 私はいつも通り聞いた。男性は一瞬だけ間を置いて、短く言った。


「……いいです」


 間が、冷たい気がした。いいです、が「いいです!」じゃない。私は勝手に、怒っていると決めた。


 レジの操作をする指が少しだけ速くなる。急いで返さなきゃ、と思う。急ぐとミスが増えるのに、急ぐ。便利の反射神経。


 袋詰めをして、レシートを切る。紙がシュッと出る音が、やけに大きい。私はレシートを渡そうとして、男性の手がまだスマホを握っているのに気づいた。片手が空いていない。


「あ、こちら……」


 言った瞬間、男性が眉を寄せた。見えるのは目と眉だけ。その眉が、私の心に刺さる。


「……」


 男性はスマホをポケットに入れ、無言でレシートと袋を受け取った。会釈もない。足早に出ていく。ドアベルがチリン、と鳴る。自転車のベルみたいに乾いた音。


 私はその音のあと、妙に取り残された。


 自分のミスだ。何か失礼をした。声が小さかった? 袋詰めが遅かった? 温めますか、の言い方が機械っぽかった? 私は頭の中で、原因を並べる。並べれば並べるほど、どれも当てはまりそうで嫌になる。人間の自責は、検索精度が高すぎる。


 レジ横の小さな画面に、次の注文が入る通知音が鳴った。ピロン。さっきの男性の「……いいです」と同じくらい短い音。短いものほど、心に残るのはなぜだろう。


 私はその後も接客を続けた。笑顔は目で作る、と言われるけど、目だけで笑うのは結構筋トレだ。頬の筋肉が疲れる。私はいつもより声を高めにしてみたり、逆に落ち着かせてみたりした。でも、さっきの眉が頭の中に残っていて、うまく切り替えられない。


 休憩時間、バックヤードで水を飲んだ。紙コップの縁が、なぜかいつもより薄く感じる。薄いものに触れると、心も薄くなる気がする。私はスマホを開いて、何もない通知欄を見た。何か来てほしいわけじゃないのに、見てしまう。見てしまう自分が、さらに嫌になる。


 戻ると、カウンターに常連の女性が来ていた。いつも同じ時間帯に来て、いつも同じパンを買う人。髪をきちんとまとめて、バッグの持ち方が静かだ。私はその人の「静か」を、勝手に好きになっている。


「いつもの、お願い」


「はい」


 袋に入れて、会計をして、レシートを切る。シュッ。紙が出る。私はそれを差し出しながら、さっきの男性を思い出して、少しだけ慎重になる。


 常連の女性はレシートを受け取るとき、私の目を見て、ほんの一拍だけ間を置いた。間。沈黙じゃなく、間。


「……いつも、ありがとうね」


 それだけ。


 短い。短いのに、重さが違う。言葉が長いほど優しいわけじゃない。短い労いは、余計な説明がないぶん、まっすぐ刺さる。背景はその短さで十分だった。今日の私は、たぶん、ちゃんと頑張っている。少なくとも、頑張ろうとしている。


 私は喉の奥で、変な音が出そうになって、慌てて「こちらこそ……」と返した。言い切らない。言い切ると泣きそうだから。


 女性が出ていくとき、ドアベルがまたチリンと鳴った。今度はさっきより柔らかく聞こえた。音は同じはずなのに、こちらの受け取り方で変わる。人間って、ほんとにコスパが悪い。


 次のお客さんが来る。私は心の中で小さく息を吸って、声を出す前に一拍置いた。声の「間」を意識する。表情が見えないなら、間で表情を作る。早口で埋めない。急いでる自分を、いったん待たせる。


「いらっしゃいませ」


 言葉の前に、少しだけあたたかい空気を置く。声の温度を、ほんの一度上げる感じ。うまくいくかはわからない。でも、やってみる価値はある。


 閉店間際、レジ締めの作業をしながら、私は今日のレシートの束を整えた。紙の角が揃うと、心も少し揃う。束の中に、さっきの常連さんのレシートが混ざっている。どれがどれだかわからないのに、なぜか「ここにある」と思えるだけで救われる。


 帰り支度をして、制服を畳む。エプロンの紐の跡が手首に残っている。今日の自分の働いた証拠みたいで、少しだけ誇らしい。スマホがポケットの中で振動した。通知音は鳴らない設定。でも、震えは伝わる。私はすぐ見なかった。すぐ見なくても、世界は崩れない。パンも明日焼ける。


 店のドアを開けると、春の夜の空気が入ってきた。外はひんやりしているのに、店内のあたたかさが背中に残る。温度差が、今日の出来事みたいだ。冷たい眉もあったし、短い「ありがとう」もあった。


 私はマスクの中で、小さく息を吐いた。表情は見えない。でも、声の間と、レシートの角と、店内の温度で、今日を少しだけ整えられる。通知がなくても、世界は続く。続くから、明日もまた、一拍置いて声を出す。

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