第11話 上司の推し活
職場の飲み会って、会話の「間」がやたら伸びる。
伸びた間を埋めるために、誰かが笑う。笑いが足りないと、ビールの泡みたいに気まずさが立つ。私は泡を消す係じゃないのに、いつも泡の具合を見てしまう。たぶん仕事の癖だ。場の温度を計測して、問題が起きる前にログを残したくなる。
四月の金曜。部署の歓迎会。駅前の焼き鳥屋で、串の煙が春の湿った空気に混じる。店のドアが開くたび、外の冷えた風が入り、またすぐ炭火に溶ける。私はジョッキを持って、上司の向かいの席に座った。
上司——西川課長は、怖いことで有名だ。声が大きいわけでも、怒鳴るわけでもない。むしろ静か。静かだから怖い。無音の赤ペンみたいな人。提出物の「ここ、違う」を、丸じゃなくて沈黙で示すタイプ。
今日も課長は、最初の乾杯のあと黙って串を食べていた。咀嚼の音がしない。咀嚼って、こんなに気配を消せるんだ、と感心するレベル。
私はビールを一口飲んで、次に何を話すべきか考えた。歓迎会なのに、歓迎する側が試験を受けている感じがする。誰がこの仕組みを設計したんだ。たぶん昔の誰か。
隣の席で、若手が「最近どうですか」と課長に聞いた。勇気ある。私は内心拍手した。拍手のスタンプを送りたい。現実に送れないけど。
「……どう、って」
課長の返事が短い。空気が、焼き鳥の煙みたいに一瞬滞る。誰かが「忙しいですよね」と続ける。課長が小さくうなずく。会話が、まるで弱火で煮られている。
そのとき、課長のスマホがテーブルの上で震えた。通知音が、ピロン、と鳴る。場の中で一番軽い音のはずなのに、なぜか全員の視線が一瞬そっちへ吸い寄せられる。
課長は画面を見て、ほんの一瞬だけ口角を上げた。上げた、というより、上がりかけた。幻みたいな笑い。
私は見逃さなかった。見逃せなかった。怖い上司の笑いは、UFOくらい珍しい。
「……何か、いいことですか」
思わず聞いてしまった。しまった、と思ったけど、もう遅い。
課長はスマホを伏せた。伏せ方が、丁寧だった。秘密を隠す手つきじゃなくて、秩序を整える手つき。
「いや……推しが……」
推し。
店内の空気が、一瞬だけ固まって、次の瞬間、やわらかくなる。串の塩が溶けるみたいに。
「推し……ですか?」
若手が身を乗り出す。課長は、一拍置いた。その「間」が、いつもより長い。長いけど、怖くない長さだった。考えている間だ。
「……アイドルじゃない。劇団」
劇団。さらに意外。課長のスーツの肩幅と、劇団という単語の距離が遠い。遠いのに、そこがつながると妙に人間味が出る。
「グッズの発売通知が来た」
課長が言って、スマホを少しだけ開いて見せた。画面には、スタンプみたいな小さなマスコットの画像。かわいい。かわいすぎる。課長の指が、その画像をスワイプする。スワイプが真面目。
誰かが笑った。笑いが馬鹿にする笑いじゃなくて、驚きの笑い。私はその笑いに、肩の力が抜けるのを感じた。怖い上司の「推し活」は、場の温度を上げる。上げるけど、距離感も揺らす。
「課長、そんなの好きなんですね」
「意外すぎます」
「チケット取れるんですか」
質問が飛ぶ。課長が短く答える。短いけど、さっきまでの短さと違う。硬い短さじゃなく、照れの短さ。会話の間が、少しずつ短くなっていく。泡が消える。
私はふと、危うさも感じた。こういうとき、距離が急に近づく。近づきすぎると、あとで元に戻せなくなる。飲み会の魔法は、終電で切れる。
案の定、誰かが言った。
「じゃあ課長、今度みんなで観に行きましょうよ!」
その言葉が、場に落ちた瞬間、私は課長の顔を見た。目だけが少しだけ細くなる。笑っているようで、笑っていない。境界線を探している目。
課長は一拍置いて、口を開いた。
「……誘ってくれるのは、ありがたい」
ここで「行こう」と言えば、場はさらに盛り上がる。言わなければ、冷える。どっちも地雷。私は勝手に身構えた。
課長は続けた。
「でも、これは……私の逃げ場所だから。職場とは、切っておきたい」
逃げ場所。
その言葉が、静かに場に浸透した。誰も笑わない。誰も茶化さない。代わりに、みんなが少しだけ姿勢を正す。課長が線を引いた。拒絶じゃなく、配慮として。
「仕事で疲れたとき、ここに戻れるようにしたい。だから、劇団の話はしてもいいけど……一緒に行くのは、やめとく」
誰かが「なるほど」と小さく言った。若手が「すみません、軽く言っちゃって」と言いかけて、課長が首を振る。
「謝らなくていい。……こういうのも、言っとかないとわからないから」
わからないから、言う。上司がそう言えるの、強い。私はそこで、尊敬って何だろうと考えた。仕事ができるとか、厳しいとか、そういうことだけじゃない。距離の取り方を言語化できること。場を壊さずに線を引けること。尊敬は、近づくためじゃなく、適切に離れるためにあるのかもしれない。
飲み会はその後、また少しだけ賑やかになった。課長の推し活は、話題としては残り、領土としては守られた。いいバランス。誰かの好きは、共有できるけど、所有しない。
店を出ると、夜風が頬に当たった。春の終電前の空気は、あたたかさと焦りが混ざっている。駅のホームへ向かう人の足が早い。終電って、公共の締切だ。
私は改札へ向かいながら、スマホを取り出した。誰かからメッセージが来ている。スタンプが一つ。拍手のやつ。たぶん、さっきの若手から「課長の推し活、やばいですね」の共有だろう。私は返信欄を開いて、スタンプを返そうとして、やめた。
代わりに短く打つ。
『ああいう線引き、覚えときたいね』
送って、スマホをポケットにしまう。通知が鳴らなくても、電車は来る。終電前の風は勝手に流れて、誰かの推しも、誰かの仕事も、それぞれの場所で続く。
尊敬は、距離を詰めるための梯子じゃなくて、距離を保つための手すりだ。私はホームの黄色い線の内側に立って、その手すりの感触を、頭の中で確かめていた。
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