第8話 新歓グループの “空気”

 新歓のグループチャットは、春の花粉みたいだ。目に見えないのに、どこからか入ってきて、くしゃみのタイミングだけは奪っていく。


 授業が終わって、学内の坂を下りながらスマホを見ると、通知が十七件たまっていた。画面の上が赤い。赤って、危険じゃなくて「見て」の色なんだな、と変な感心をしてしまう。見たら最後、返さなきゃいけない気がするから。


『今日の新歓、来れる人!』

『このあとご飯行くよー!』

『二次会、カラオケ!』

『スタンプだけでも返して〜!』


 スタンプが飛び交っている。ハート、拍手、笑顔。かわいいのに、圧がある。私は立ち止まって、画面をスクロールした。春の夕方の光がスマホに反射して、文字が薄くなる。見えにくいのが、ちょっと助かる。見えないなら返せなくても、いい気がする。


 でも私は見えている。見えているから、指が動く。


 既読をつけないように、通知のプレビューだけでやり過ごそうとしたのに、結局タップしてしまった。既読がつく。沈黙の署名みたいに。


 『既読 1』


 自分の存在が、数字で点灯する。点灯したのに、返事はまだ出せない。今日は、無理だ。昼間のゼミで頭を使って、午後はバイトのシフトの相談をして、帰りにレポートの資料を探した。体の中が、もう空席なし。そこに「参加できる空気」を座らせる余裕がない。


 でも断るのも、怖い。


 断ったら、次から誘われないかもしれない。断らなかったら、今日がつらい。どっちもこわい。私はその間に挟まって、ただ既読だけをつけたまま画面を伏せた。伏せたのに、スマホがポケットの中で熱い。画面が閉じても、気持ちは閉じない。


 帰りの電車で、また通知が増える。隣の席の人のイヤホンから、シャカシャカ音が漏れている。私はそれを「誰かの部屋の換気扇」みたいに思って、勝手に安心する。世界は、みんなの小さな音でできている。


 グルチャを開く。既読が増えている。誰かが「盛り上がってる!」って写真を送っている。テーブルの上の唐揚げ。ピース。笑顔。私はその写真を見て、行けない自分が悪いみたいな気がしてくる。写真って、楽しさの証拠で、証拠って時々人を追い詰める。


 『紗季ちゃんもおいでよー!』

 先輩から個別に来た。文末に、にこにこのスタンプ。


 私は返信欄を開いたまま、閉じた。開いたまま、閉じた。気持ちのドアを何回も出入りする。結局、何も言えないまま駅に着いた。


 改札を抜けると、夜の空気が少し湿っていた。春の夜は、昼の暖かさの記憶をまだ持っている。駅前の植え込みの匂い。誰かが持っているコンビニのホットスナックの匂い。歩道の端の水たまりが、街灯を映している。


 そこに、偶然、真帆がいた。ヘッドホンは今日も首にかかっている。彼女はコンビニ袋を揺らしながら、私を見つけて手を挙げた。


「紗季、顔、グルチャに溺れてる」


「やっぱり?」


「うん。既読の海」


 私は笑った。笑うと少し楽になる。楽になると、ちゃんと話せる。


「新歓の誘い、すごくて。断れなくて。返事もしないで既読だけつけちゃって……罪悪感すごい」


 真帆は「わかる」と言って、コンビニ袋からガムを一つ取り出した。私にも差し出す。受け取ると、包装のカサッという音が夜に小さく響く。


「断っていいよ」


 真帆は、あまりにも普通に言った。雨が降る前に傘を持つ、くらいの普通さで。


「え、でも……空気が」


「空気、吸うものだから。合わせるものじゃない」


 うまいこと言う。私はガムを噛みながら、少しだけ目を細めた。ミントの刺激が、胸のあたりまで届く。


「それに、誘う側もさ。全員来ないのはわかってるよ。新歓って“多めに撒く”イベントだから」


 多めに撒く。花粉みたいだと思ったの、正しかったのかもしれない。私はその比喩を口に出そうとして、やめた。口に出すと、今の辛さまで冗談にしてしまいそうで。


「でも既読ついて返事ないと、感じ悪いかなって」


「感じ悪いって思う人もいるかも。でも、ちゃんと断る人のほうが、助かる人もいる」


 真帆はそう言って、少し間を置いた。


「先輩の中にも、断れない子だった人、いるよ。だから“断っていい”って言う」


 背景が、ひとつだけ見えた。先輩の「断っていい」は、上からの許可じゃなくて、自分の過去からの手渡し。そう思うと、世界が一段広がる。逃げ道が、最初から用意されていたみたいに見える。


 家に着いて、靴を脱いだところで、私はスマホを机に置いた。置いて、深呼吸した。部屋の匂いは洗剤と、少しだけ本の紙。春の夜風が窓の隙間から入ってきて、カーテンがふわっと揺れる。


 私はグルチャを開いて、短く返事を打った。


『誘ってくれてありがとうございます!今日は体力がなくて行けないです。また次の機会に…!』


 文末の「!」は、今日の私にとってはギリギリの明るさだった。スタンプは押さない。押すと、元気なふりが過剰になる気がした。送信して、画面を閉じる。胸の中の硬さが、少しだけほどける。


 それから、個別に来ていた先輩にも返した。


『声かけてもらって嬉しいです。今日は休みます。また参加できそうなとき教えてください』


 送るとき、指先が少し震えた。断るって、勇気がいる。でも、断る勇気は、私の生活を守る勇気でもある。


 翌日、昼休みにグルチャを見ると、誰かが「また今度〜」と返してくれていた。怒ってる感じはない。拍手のスタンプが一つだけついている。世界は、私が思うほど単純に閉じない。


 そして、その翌週。今度は私が、新歓の企画を手伝う側になった。新入生向けの小さな集まりの案内文を作る係。私はキーボードを叩きながら、昨日の自分を思い出した。誘いの言葉には、出口が必要だ。


 私は文章の最後に、一行だけ足した。


『途中参加・途中退出OKです。無理せず、気が向いたらで!』


 スタンプも添えた。逃げ道のスタンプ。走って逃げる人のやつ。かわいいのに、ちゃんと意味がある。


 誘う側への配慮って、相手を縛らない配慮でもある。誘いは罠じゃなくて、扉でいい。扉なら、開けるのも閉めるのも、相手の手に残る。


 夜、帰り道。駅前の花壇から、湿った土と花の匂いがした。春の夜の匂いは、昼より静かで、でも確かに生きている。私はスマホをポケットに入れたまま、少しだけ空を見上げた。


 既読は沈黙だ。でも沈黙にも、息継ぎの沈黙がある。通知が鳴らなくても、世界は続く。続くから、私は次に誘うとき、ちゃんと逃げ道をひとつ添える。自分のためにも、誰かのためにも。

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