第7話 置き配と避難経路
管理組合の掲示板は、紙なのにだいたい燃えている。
エントランスの隅、郵便受けの向かい。ガラス板の奥で、ホチキスの針が光っている。私は買い物帰りの袋を腕にぶら下げたまま、その前で足が止まった。春の雨が上がったばかりで、床のタイルがまだ少し湿っている。濡れたコンクリートと、外の土の匂いが混ざって、鼻の奥がくすぐったい。
新しい紙が増えていた。しかも一枚じゃない。重ね貼り。目立つやつ。
『共用廊下への宅配箱・置き配荷物の放置について苦情が出ています。避難経路確保のため、共用部に私物を置かないでください。』
ここまでは、いつもの注意喚起。問題はその下だった。
『しかし、日中不在の単身者や共働き家庭にとって置き配は必要です。全面禁止は現実的ではありません。』
誰かがペンで追記している。黒のボールペン。筆圧が強い。さらにその下に、別の文字。
『ルールはルールです。必要なら宅配便の時間指定を。』
紙の上で会話が始まってしまっている。しかも、声が大きくなるタイプの会話。私は思わず、自分の宅配箱のことを思い出した。折りたたみのやつ。今は玄関内に入れてある。でも、先週までは廊下に出していた。私も、この話題の中にいる。
袋の中で、牛乳パックがごとんと鳴った。その音が、妙に「傍観者でいられないよ」と言ってくる。
翌日、掲示板はさらに増えていた。紙が紙を呼んで、ホチキスが働きすぎている。もはや小さな新聞。
『置き配が原因で通行が妨げられています。ベビーカーが通れません。』
『避難時に障害になります。消防法をご存知ですか。』
『共用部は共用部。個人の事情で占有しないでください。』
どれも正しい。正しさが、角ばっている。角ばった言葉は、人の肩に当たる。私は読めば読むほど、喉が乾いた。自分が何か言う立場でもないのに、言われている気がする。
その晩、エレベーターで佐藤さんに会った。佐藤さんはいつも通り静かなスリッパの音で、ボタンの前に立った。
「掲示板、見ました?」
私は言ってから、しまったと思った。聞くようなことじゃない。だって見てるに決まってる。あれは燃えてるから。燃えてるものは、見たくなくても目に入る。
「ええ……」
佐藤さんは小さくうなずいた。ため息はつかない。その代わり、手元のエコバッグの持ち手を握り直した。指の関節が少し白くなる。言葉を選んでいる手だ。
「書き込み……増えましたね」
「増えましたね……」
エレベーターの中で、私たちは同じ言葉を繰り返した。繰り返すことで、怒りの代わりに距離を取っている感じがした。
次の週、管理組合の臨時の集まりが開かれた。といっても会議室じゃなく、エントランス横の小さいスペース。折りたたみ椅子が並び、空気が少しだけ固い。私は参加するつもりはなかったけど、掲示板の紙があまりに増えて、逆に「誰かが言ってくれないと困る」側に回ってしまった。
参加者は十人くらい。年齢も生活もばらばらだ。ベビーカーを押してくる人もいれば、スーツのまま来た人もいる。私は自分がどこに座ればいいか迷って、結局端に座った。端はいつも、逃げ道が近い。
「置き配は禁止にすべきです」
最初に声を上げたのは、背の高い男性だった。言葉がはっきりしていて、はっきりしすぎていた。
「避難経路が塞がれる。ルールはルールです」
対して、若い女性が小さく手を挙げた。抱っこ紐の中で赤ちゃんが寝ている。
「でも、毎回時間指定って……仕事だと受け取れないことがあって。宅配ボックスもないし」
別の人が言う。
「じゃあ宅配ボックス設置を」
「費用は?」
「管理費から?」
「いや、負担が——」
言葉が鋭くなるのが、目に見えた。みんな「正しい」を手に持っている。正しいは、握り方によっては刃物になる。掲示板で起きていたことが、今度は声で起きている。
私は口を開きかけて、閉じた。何を言っても、自分の都合に見える気がした。置き配、便利だった。便利だからこそ、言いづらい。便利って、言葉にすると急にわがままっぽい。
そのとき、佐藤さんが手を挙げた。いつもより少しだけ大きい動きだった。
「……一つ、いいですか」
場が、少し止まった。佐藤さんは紙を持っていなかった。スマホも見ていない。ただ、みんなの顔を一度ずつ見た。見て、見過ぎない。そこが上手い。
「置き配をしたい、のも、廊下を空けたい、のも……たぶん同じゴールだと思うんです」
誰かが「同じ?」と顔で言った。佐藤さんは続ける。
「安全に暮らしたい。転ばないように、通れるように。緊急のときに、逃げられるように。……それが先で、ルールはそのための言葉ですよね」
“避難経路”という四文字が、急に別の形になった。法律用語じゃなく、暮らしの言葉になる。
佐藤さんは、少し間を置いて言った。
「廊下が空いていることは、誰かのためだけじゃなくて、自分のためでもある。置き配も、誰かが受け取れることが、暮らしのためになる。だから、両方できる場所を決めませんか」
正しいと正しいがぶつかるとき、たいてい「勝つか負けるか」になる。でも佐藤さんは、「同じゴール」という地図を出した。地図があると、道が選べる。選べると、声が少し下がる。
私は気づいた。今まで私は「正しさ」で話そうとしていた。禁止か必要か。ルールか生活か。でも正しさと暮らしは、別の言語だ。同じ単語を使っても、意味がずれる。掲示板の書き込みが炎上するのは、その翻訳がないからだ。
管理組合の役員さんが言った。
「場所、というと……たとえば、エレベーター前は避ける。外階段へ出る動線は空ける。じゃあ、各階の角のスペースはどうでしょう」
「角なら通路幅が確保できるかも」
「ただ、私物の置きっぱなしは」
「置き配用に、時間を決めるとか?」
「朝まで放置しない、とか」
言葉が、少しだけ丸くなる。刃物だった正しさが、工具に変わる感じ。作るための言葉になる。
結局、暫定の案が決まった。各階の廊下の角に「置き配一時置き」スペースを設け、テープで枠を作る。荷物は当日中に回収。大きい箱は禁止。宅配箱は玄関内に。細かいけど、細かいほうが生活には効く。
解散のとき、私は佐藤さんに近づいた。言葉を探して、結局、短く。
「さっきの……助かりました」
「いえ……私も、怖かったので」
怖かった、が出るのが佐藤さんらしい。正しさの裏に、怖さがある。怖さは共有できる。正しさは奪い合いになることがある。
外に出ると、雨上がりの空が明るかった。アスファルトが濡れて、街灯や空の光を反射している。春の雨の匂いは、土と金属と、少しだけ草の甘さ。息を吸うと、胸の奥の固さがゆるむ。
私は自分の宅配箱のことを思った。便利で、助かる道具。でも公共の中では、置き場所が言葉になる。私は「玄関前」じゃなく「玄関内」に戻したままにする。置き配の指定は「不在時のみ」にする。受け取れない日だけ、角のスペースを使う。完璧に正しくはないけど、たぶん一ミリなめらかだ。
掲示板のガラスの向こうで、紙はまだ並んでいる。並んでいるけど、燃えてはいない。雨が消火したんじゃなくて、同じゴールの地図が、火種を小さくしたのだと思った。
通知がなくても、世界は続く。続くから、正しさだけで走らずに、暮らしの言葉でブレーキをかけられる。雨上がりの匂いの中で、私はそれを覚えた気がした。
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