第6話 通知音とブレーキ
通知音って、軽い。軽いくせに、体の向きを変える力がある。
朝の自転車通勤。マンションの駐輪場から出るとき、チェーンが小さく鳴って、空気がまだ冷たい。春の匂いはあるのに、影のところは冬が粘っている。私はヘルメットのあご紐を指で引いて、きつすぎない位置に戻した。こういう微調整だけは、ちゃんとできる。
駅前を抜けて、川沿いの道に入る。通勤の自転車が多い時間で、みんな同じ顔をして同じ速度で流れていく。信号は規則正しい。規則正しいのに、私はいつも少しだけ焦っている。
焦りの正体は、たぶん通知だ。
ポケットの中で、スマホが震えた。次の瞬間、ピロン、と鳴った。会社のチャットの音だ。短い音のはずなのに、耳の奥に針みたいに残る。私は前を見ているのに、意識が横に引っ張られる。
「今の案件、どうなってます?」
文章が頭の中で勝手に再生される。見てもいないのに。見なくても、答えなきゃいけない気がする。既読にしたら返さなきゃ、という呪いの親戚だ。
私はハンドルを握ったまま、ポケットに指を差し込んだ。スマホの角に触れる。画面は見えない。でも、触れたことで「もう半分見た」ことになってしまう気がした。
その瞬間、前の自転車が少しふらついた。たぶん、段差。私はブレーキを握った。握ったはずなのに、握るのが一拍遅れた。
キュッ、とタイヤが鳴く。私の体が前に持っていかれる。胸の中が一瞬空になる。
右から、車の音が迫った。エンジン音じゃなく、タイヤがアスファルトを削る音。低くて、重い。視界の端で白い車体が動いた。ドライバーの顔は見えない。ただ、距離が近い。
私は反射で、左に寄った。寄った先で、歩行者がいた。犬の散歩の人。犬の首輪の金具が光った。
「すみません!」
声が出たのは、止まりかけたあとだった。犬が驚いたのか、小さく吠える。飼い主がリードを引く。私の背中に、冷汗がじわっと広がる。汗って、春でも冷たい。
私はその場で足をついた。心臓が、まだキュッと鳴っている。耳の奥の針が、今度は違う針になった。危険の針。
歩行者の人は怒鳴らない。ただ、目だけが「危ないよ」と言っていた。言葉がないぶん、刺さる。犬は私の足元を一度だけ嗅いで、すぐ興味を失った。犬って、切り替えがうまい。うらやましい。
「……大丈夫ですか」
飼い主が言った。こちらを心配する感じで。私はさらに情けなくなる。
「はい……すみません」
私は頭を下げて、ペダルに戻った。戻ったけど、体の中の何かが戻っていない。握っているハンドルが、さっきより硬い。指先に力が入って、逆にふらつきそうになる。
走り出してから、言い訳が浮かぶ。
急いでた。遅れたら迷惑。返信が遅いと、仕事が回らない。みんな待ってる。自分がちゃんとしてないと——。
言い訳は、いつも便利だ。都合のいい公共。だけど今、さっきの車の音が、まだ皮膚の裏に残っている。タイヤの鳴き方。犬の吠え声。リードの金具の光。具体的すぎて、言い訳が薄くなる。
私は信号で止まったとき、ポケットのスマホを取り出した。画面には通知が並んでいる。未読の赤い数字が、ちいさな怒りみたいに見える。私はその数字を見ながら、息を吐いた。
そして、スマホをバッグの奥に入れた。
奥。すぐ取れない場所。取ろうと思ったら、一度止まらないと無理な場所。人は、自分の意思だけじゃ止まれないから、仕組みに助けてもらうしかない。
バッグのファスナーを閉める音が、やけに大きい。ジジッ、と春の朝に線を引くみたいな音。私は自分でその音に少し笑った。まるで「封印」みたいだ。中二病か。
会社のチャットは、返事が遅れたら遅れたで、たぶん誰かが別の手で回す。回らないなら、それは私だけのせいじゃなく、仕組みの問題だ。そう思うと、胸の中に小さな余白ができる。余白は、息が入る場所だ。
駅前の交差点を曲がる。春の風が、川の匂いを運んでくる。湿った草と、少しだけ泥。朝日が水面に反射して、目が細くなる。私は速度を少し落とした。遅れるかもしれない。でも、遅れることと、誰かを危険にすることは、同じ重さじゃない。
会社に近づくにつれて、自転車の列がまた増える。みんな、ちゃんと前を見ているようで、見ていないようでもある。私は自分のベルを指で触った。鳴らすつもりはないけど、そこにあることを確かめる。ベルは、自分の存在を小さく知らせる道具だ。通知音みたいに、強引に引っ張らない。必要なときだけ、乾いた音で、短く。
横断歩道の手前で、歩行者が一歩出そうになって止まった。私はベルではなく、ブレーキを早めに握った。タイヤが静かに減速する。相手が安心するスピードに合わせる。これも、ひとつの調整だ。
ビルの駐輪場に着いて、自転車を止める。私はバッグからスマホを取り出した。通知はそのまま残っている。残っているけど、さっきほど針じゃない。私は画面を開いて、短く返事を打った。
『移動中でした。今確認します』
言い訳じゃなく、事実。事実だけを置くと、文章が軽い。軽いのに、ちゃんと届く気がした。
自転車をラックに押し込むとき、ベルがどこかに当たって、カン、と乾いた音がした。私はその音を聞きながら、さっきの車のタイヤの音が、少し遠のいたのを感じた。
春の風は、通知なしで吹く。吹いて、止まって、また吹く。私はそのリズムに合わせて、今日のブレーキの握り方を、ほんの一ミリ変えた。
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