第5話 深夜の五箱
深夜の通販サイトは、だいたい優しい顔をしている。
「今だけ」「残りわずか」「あなたへのおすすめ」。言葉が毛布みたいに掛かってきて、こちらの疲れを見逃してくれる。見逃してくれるというか、見つけて撫でて、買わせる。
その夜、私は布団の中でスマホを握っていた。仕事のチャットは静かになっているのに、頭の中だけ通知音が鳴り続けている。キーボードを打つ指の感覚が、まだ親指に残っていて、画面をスクロールするたびに「まだ働ける」みたいで嫌だった。
セールのバナーが光っていた。例の、職場でたまに配られている小さなお菓子。個包装で、コーヒーに合うやつ。自分で買うほどでもないのに、もらうと妙にうれしいやつ。
私は「1箱」をカートに入れた。次に、なぜか「2箱」にした。送料が変わらないから、と言い訳が瞬時に出る。さらに「3箱」。画面の合計金額が増えるのが、ゲームのスコアみたいで、変に気持ちがいい。
気づいたら「5箱」になっていた。
「購入を確定する」のボタンを押したとき、胸の中で小さく花火が上がった。音はしないけど、視界が一瞬きらっとする。私はそのままスマホを伏せて、目を閉じた。春の夜は窓が薄くて、外の街灯の光がカーテン越しに滲む。眠りに落ちるまでの数分、私の中の空白が埋まった気がした。
翌朝、玄関のチャイムで起きた。起きたというより、引きずり上げられた。睡眠の底に指を突っ込まれて、ぐいっと。
インターホンの画面に、宅配の人。私は髪を手で押さえながら、慌てて鍵を開けた。
「お届け物です」
大きい段ボールが、どん、と玄関に置かれる。次も、どん。次も。合計で五回、どん。玄関が、突然物流センターになる。
私は固まった。段ボールの茶色が、朝の光を吸って、部屋の中だけ秋みたいに見える。受け取りのサインをして、ドアを閉めた途端、静けさが戻る。その静けさが、逆に痛い。
五箱。
私は膝をついて、段ボールの上の伝票を見た。送り主の社名が印刷されていて、私の名前が堂々と並んでいる。昨夜の毛布が、朝になって剥がれている。
恥と自己嫌悪が、一緒に届いた。
私は段ボールを一箱ずつ部屋の奥に運ぼうとした。廊下側から見えないように。誰も見てないのに、見られている気がする。マンションって、壁が薄いんじゃなくて、想像が薄い。
運び終えたところで、玄関ドアの下に白い紙が差し込まれているのに気づいた。不在票。宛名は隣の部屋。時間帯はさっき。配達員さん、私のところで五回もどんどんしたのに、隣は留守だったらしい。
私は不在票を拾い上げて、いったん広げて、畳み直した。昨日の私みたいだ、と変なところで思ってしまう。受け取りそびれたものが、紙になって残る感じ。
隣のポストに入れておこうと、廊下に出る。春の朝の廊下は眩しい。窓から入る光が、埃を見せる。埃って、見えると急に罪みたいになる。
不在票を入れて部屋に戻ると、五箱が待っている。待っているというか、居る。居ることが主張。
私は段ボールの角を撫でて、ため息をついた。開けるのも怖い。開けないままでも怖い。どっちも怖いなら、怖くないふりをするしかない、と思ってしまうのが私の癖だ。
通勤の電車の中で、私は注文履歴を見た。レシートみたいに、数字と商品名が並んでいる。「同商品 ×5」。昨夜はあれが、私を救ってくれた。今はそれが、私を殴ってくる。
職場の最寄り駅から歩く道、花壇のチューリップが咲いていた。赤と黄が、迷いなく明るい。人間もあれくらい迷いなく明るければいいのに、と一瞬思って、すぐにやめた。そんなの疲れる。
午前の仕事をこなして、昼休み。私はロッカーの上の空きスペースを見て、思い切って言った。
「これ……よかったら、どうぞ」
紙袋に詰めて持ってきたお菓子。五箱のうち一箱分だけを、こそこそ移した。最初から配る予定だったみたいな顔をしようとして、顔の筋肉が変な動きをした。
同僚の皆が、意外なほど自然に受け取った。
「え、助かる」
「これ好き」
「午後の会議の前にちょうどいい」
誰かが笑って、誰かが机に置いて、誰かがすぐ開けた。ガサッという音が、こちらの恥を少し薄める。私は「いや、セールで……」と言いかけて、やめた。言い訳は、味を落とす気がした。
その時、胸の奥で、昨夜のボタンを押した指の感覚が思い出された。あれは欲望だった。でも欲望って、全部が悪いわけじゃない。あれは、たぶん、疲れの穴を埋めたかっただけだ。
ここ最近、私の一日は「やること」で満ちていて、「よかった」が足りなかった。評価が欲しいとか、拍手が欲しいとか、そんな派手な話じゃない。単純に、誰にも見られない場所で「おつかれ」が欲しかった。深夜の通販サイトは、それを「購入確定」でくれるふりが上手い。
午後、会議室の前で、同僚がぽつりと言った。
「奏さん、こういうの配れるの、地味にすごい。気が回る」
私は笑って、首の後ろを掻いた。気が回るというより、箱が余っているだけなんだけど。そう言うのも違う気がして、短く返した。
「……たまたま」
たまたま、という言葉が、嘘でも本当でもない感じで落ちた。床に落ちたスタンプみたいに、押せてないのに形だけ残る。
帰宅すると、玄関の五箱が視界に入る前に、私は靴を揃えた。揃えると、世界が少し整う気がする。段ボールはまだある。四箱と、少し減った一箱。減ったことが、救いでもあり、また別の恥でもある。
私はスマホの注文履歴を開いて、スクリーンショットを撮った。自分に見せるため。怖いもの見たさじゃなくて、次の自分へのメモ。
そして、通販アプリの設定をいじった。「ワンクリック購入」をオフ。購入前に確認画面が出るようにする。たったそれだけで、深夜の私に一秒の隙ができる。隙ができれば、呼吸が入る。
さらに、メモアプリに短いルールを書いた。
『カートに入れて、寝かせる。朝見て、まだ欲しいなら買う』
寝かせる派。グルチャの葵みたいで、少し笑った。私も返信を寝かせられるなら、購入も寝かせられるかもしれない。
その夜、スマホを握りそうになって、私は代わりに冷蔵庫から水を出した。コップに注ぐ音が、静かに部屋に広がる。水は買わなくても減るし、減ってもまた満たせる。便利と違って、押さなくても来るものがある。
翌朝。カーテンを開けると、春の光が、容赦なく玄関まで届いた。段ボールの茶色が、ちゃんと茶色に見える。隠そうとしていたものが、ただの荷物になる。
私は一箱を持ち上げて、職場用の袋に少し移した。手が慣れてきているのが悔しいけど、慣れって悪じゃない。続くための手つきだ。
玄関の隅に、不在票がもう一枚落ちていた。今度は私宛てじゃない。誰かの生活の取りこぼし。私はそれを拾って、ポストへ向かう。春の眩しさの中で、紙は白く、ただ白い。
通知がなくても、世界は進む。進むから、私は今日も、カートを寝かせる練習をする。五箱の記憶を責める代わりに、次の一秒の隙を作る。そこだけ、少しだけ。
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