第4話 ぬいぐるみのICU

 くま吉がいない部屋は、思ったより音がする。


 冷蔵庫の低い唸り。エアコンのランプの微かな明滅。スマホの通知音だけは、いつも通りに可愛げがあって腹が立つ。鳴っても、抱きしめる相手がいない。


 くま吉は、ぬいぐるみだ。私が小学生のときに祖母がくれた、茶色いくま。右耳の縫い目が少しだけ歪んでいて、そこが好きだった。好きだった、という言い方にすると、もう終わったみたいで嫌だから、好きだ。


 でも、好きなものほど傷む。くま吉の首が、ある日ふにゃっと傾いた。抱き上げたときの重みが、いつもの場所に戻ってこない。綿が寄ったのか、糸が切れたのか。私は首元をそっと触って、指先で違和感を探した。探せば探すほど、怖くなるやつだ。


 私は「ぬいぐるみ病院」を検索して、申し込みフォームを開いた。住所と、症状と、名前。名前欄に「くま吉」と打つのは、ちょっと恥ずかしい。でも入力しないと前に進まない。仕組みは淡々としている。


 梱包して、コンビニに持っていった。段ボールの中で、くま吉の鼻先が薄い紙に当たっているのが見えて、私は慌ててタオルを一枚足した。タオルの柔軟剤の匂いが、箱の中に移る。春の匂いって、たいてい洗剤と土の間にある。


「こちら、こわれものですか?」


 コンビニの店員さんが聞く。私は一瞬迷って、結局うなずいた。


「はい……こわれもの、です」


 言った瞬間、ちょっと笑いそうになる。ぬいぐるみを「こわれもの」として出す私。世界は意外と受け止める。店員さんは淡々と伝票を貼って、「お預かりします」と言った。箱はコンベアの向こうへ滑っていく。私は手が空になって、空になった手をどこに置けばいいかわからず、レシートを握った。紙の端が指の汗で少し湿る。


 帰宅してから、ベッドの上の空間が広い。くま吉がいつも座っていた場所に、空気だけが座っている。私はその空気を、何度も整え直す。枕を直して、毛布を畳んで、結局、何も埋まらない。


 病院からは、たまに連絡が来た。「検査中です」「治療に入ります」。その文面の硬さが、逆にありがたかった。こちらの気持ちを取り扱わない、という優しさみたいで。私は返信にスタンプだけ送った。ぺこり、と頭を下げるやつ。言葉にすると重くなりそうで、スタンプに逃げた。逃げたけど、逃げ先があるだけで少し楽だった。


 そして退院の日。


 宅配のチャイムが鳴って、私は玄関まで走った。春は走ると息が甘くなる。段ボールを受け取り、はさみでテープを切る音が、妙に儀式っぽい。箱を開けると、ふわっと布の匂いが立った。新品の匂いじゃないけど、洗い立ての匂いに近い。病院の匂い。


 くま吉が出てきた。


 ……きれいだ。


 きれいすぎる。


 毛並みが整って、目がきゅっと前を向いている。首も真っすぐ。右耳の歪みが、少しだけ目立たなくなっていた。私は抱きしめた。抱きしめたのに、胸の中で何かが引っかかった。


 戻ったのに、戻ってない。


 私はくま吉を膝に座らせて、じっと顔を見た。見ているうちに、今度はくま吉が私を見返しているような気がして、気まずくなる。ぬいぐるみに気まずいって、かなり終わってる。自分で思って、少し笑った。笑ったのに、喉の奥が痛い。


 同封されていた修理明細の紙を開いた。レシートみたいに細長い。項目が並んでいる。


「首の補強」「綿の調整」「洗浄」「耳の縫い直し(軽微)」。


 文字の整列は正しい。正しいけど、私の記憶の歪みまで直さなくてよかったのに、と勝手なことを思う。私は紙の端を折り曲げて、また伸ばした。折り目が残る。残るのが、ちょっと安心する。


 箱の底に、手書きのメモが一枚あった。スタッフの名前のスタンプが押してある。かわいいくまのスタンプ。くま吉が別のくまに診てもらった事実に、少しだけ嫉妬しそうになる。


 メモには短い一行。


『新品に戻すためではなく、これからも一緒に続くための修理です』


 それだけ。


 それだけなのに、胸の引っかかりが、すっと形を変えた。戻す、じゃなく、続く。続くためには、補強が要る。歪みが少し変わることもある。私が毎日変わるみたいに、くま吉だって変わる。


 私はくま吉の首元をそっと撫でた。前よりしっかりしている。しっかりしているのに、私の手のほうが、前より慎重だ。


 その夜、私は商店街の小さな手芸店に寄った。蛍光灯の下で、鈴が並んでいる。金色、銀色、赤。どれも小さくて、どれも音が違う。私は一番小さくて、控えめに鳴る銀色の鈴を選んだ。会計のとき、またレシートが出てくる。紙って、生活の足跡だ。


 帰宅して、くま吉の首に細いリボンを巻き、鈴をつけた。結び目を作る手が、思ったより震える。鈴がちいさく鳴って、私は思わず息を止めた。止めて、笑った。


「……似合うじゃん」


 くま吉は何も言わない。言わないけど、鈴が少しだけ返事をする。既読じゃない返事。音は逃げない。


 窓を開けると、春の夜風が入ってきた。昼の匂いとは違う。土が冷えて、遠くの花の匂いが薄くなる。洗濯物の繊維の匂いと混ざって、部屋が少し広がる。くま吉の布の匂いも、その中に溶ける。新品っぽさが、風に削られて、私の部屋の匂いに馴染んでいく。


 私はくま吉をベッドのいつもの場所に座らせた。鈴が、かすかに鳴った。位置が一ミリ変わるだけで、音も変わる。


 完璧に元通りじゃない。でも、続く。続くための小さな違いなら、持っていける気がした。


 スマホは静かだった。通知がなくても、夜は進む。風は勝手に入って、勝手に出ていく。私はそれを見送って、くま吉の鈴の音を、ひとつだけ聞いてから電気を消した。

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