第3話 既読の海で息継ぎ
既読って、返事じゃないのに返事みたいな顔をする。
大学の図書館前のベンチで、私はスマホを膝の上に置いた。画面にはゼミのグループチャット。昨日の夜、私が送ったメッセージの下に、小さく「既読 4」。数字だけ増えて、言葉は増えない。
春のキャンパスは風が薄いのに、匂いだけは濃い。桜はまだ八分くらいで、花びらより先に土があたたまっている。芝生の湿った甘さと、誰かの紙コップのコーヒー。遠くでサークル勧誘の声が、波みたいに寄せては引いている。
私は指で画面を下に引っ張って更新した。意味がないのに、やる。水面を指でつついて、波紋が返事になるか確かめるみたいに。
昨日送ったのは、ゼミ発表の役割分担の提案だった。
『スライド担当、私やるね。あと、資料探しは誰がいけそう?』
そう書いて、最後にスタンプをひとつ。かわいいやつ。軽く見えるように。重くならないように。これも、私の癖だ。便利で、公共で、そしてたぶん、少し不器用。
既読がついた瞬間は、安心した。見たんだ、って。次の瞬間には、別の不安が始まる。見たのに返事がない。返事がないのに、みんなは見ている。見ているのに、沈黙している。沈黙が、私だけを透明にする。
私はベンチの背もたれに、肩を少しだけ預けた。背中が冷たい。春の光はあたたかいのに、金属は春に追いついてない。
グループのメンバーは五人。そのうち四人が既読。残り一人は未読。未読のほうが、まだ理由がある気がして楽だ。見てないなら、仕方ない。見たのに言わない、のほうが難しい。
私は頭の中で、返事の候補を勝手に作り始めた。
「いいね、任せた」
「私、資料やる」
「ごめん、今バタバタで…」
どれも来ない。来ないと、逆にもっといろんな可能性が生まれる。もしかして、私の提案が変だった? もしかして、私が勝手に仕切って見えた? もしかして、みんな別の案があるのに言いづらい?
私は「追いメッセ」を打ちかけた。
『どうかな? 急ぎじゃないけど、今日中に決めたいかも…!』
かも、が自分を守る。!が場を明るくする。そう信じたい。指が送信ボタンの上で止まる。止まったまま、親指が微妙に汗ばんで画面がぬるっとする。
そのとき、隣に誰かが座った。ベンチが少し沈む。私は反射でスマホを伏せた。伏せた瞬間に、「見られたくないことをしてる」みたいで、変に罪悪感が出る。
「紗季?」
声でわかった。真帆だ。同じゼミで、いつもヘッドホンを首にかけてる人。ヘッドホンのクッションの黒が、春の明るさの中でやけに真面目に見える。
「おつかれ。なんか、顔が“既読”って感じ」
言い方が雑で、だから救われる。私は笑ってしまった。笑うと、肺に入る空気が少し増える。
「やっぱり、わかる?」
「わかるよ。あれ、無音のくせに圧あるもん」
真帆はバッグから紙パックの豆乳を出して、ストローを刺す。刺すとき、少しだけ力がいる。プスッという音がした。その音が、妙に現実に引き戻す。
「私、昨日のやつ送ったじゃん。役割……既読ついたのに、返事なくて」
「あるある」
真帆は豆乳を一口飲んで、目を細めた。
「ねえ、みんな悪気ないよ。特に葵。あの子、返事、寝かせる派なんだよね」
「寝かせる……?」
「うん。返事する前に一回置く。考える時間ほしいって。言葉選び、慎重なタイプじゃん」
葵の顔が浮かぶ。発表のときは淡々としてるのに、レジュメの言い回しだけはやたら丁寧な人。確かに、短文のノリで返す感じじゃない。
背景が、ひとつだけ見えた。
“返事は寝かせる派”。
それだけで、海の水温が少し変わる。沈黙が、拒否じゃなくて、保温になる。
私は伏せていたスマホを、そっと表に返した。画面の光が、春の光に負けて薄く見える。通知は増えていない。増えていないのに、さっきより息ができる。
「私、勝手に“無視”って変換してたかも」
「スマホって勝手に変換するよね。文字以外も」
真帆は笑って、ヘッドホンを耳に当てたり外したりした。音の世界を切り替える動き。ミュートの神さまの親戚みたいだ。
「紗季は、早い。早いのはいいことなんだけど、既読の速さと同じ速さで気持ちも走る」
「うわ、的確に刺す」
「ごめん。刺すつもりは……あ、刺したね」
真帆は自分で言って自分で少し笑った。私はその笑いに乗っかって、肩の力を抜いた。ユーモアって、こういうときの潤滑油だ。ほんとに油だから、使いすぎるとベタつくけど。
私はスマホをもう一度伏せた。今度は隠すためじゃなく、いったん机を片づけるみたいに。胸のあたりで、深呼吸を一回。吸うと、キャンパスの匂いが入る。土と花と、遠くの学食の揚げ物。春は情報が多い。
そして、私はチャットを開き直し、追いメッセの下書きを消した。代わりに、短く打つ。
『了解! ゆっくりで大丈夫。決まりそうになったら教えてね』
スタンプは押さない。押したくなるけど、押さない。軽くしすぎると、また自分が逃げる気がした。言葉を一言だけ置く。置き配みたいに、邪魔にならない場所を選んで。
送信。
画面の下に、私の文が流れていく。川みたいに。見ているかどうかは、今はいい。
真帆が立ち上がった。
「じゃ、私、次の授業。紗季も、息継ぎしてね」
「うん。ありがとう」
真帆が去ったあと、ベンチの座面が少し戻る。私はその戻りを感じながら、スマホをカバンに入れた。入れるとき、チャックが少し引っかかる。生活の摩擦は、こういうところに残る。
空を見上げると、桜の枝が細い影を地面に落としていた。影は風で揺れて、勝手に形を変える。通知なしで、世界は勝手に続く。続くから、こちらも一回くらい、画面じゃなく呼吸に返事していい。
私は立って、図書館の入口へ歩いた。靴底が砂をひと粒踏む音。スマホは鳴らない。鳴らなくても、春の光はそこにあった。
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