第2話 ミュートの神さま
ミュートのマークって、祈りに似ていると思う。小さなマイクに斜線が一本。これで私は、世界に余計なものを流さずに済む——はずだった。
朝の在宅。机の端には昨日のコンビニのレシートが、うっすら波打って貼りついている。コーヒーをこぼしたせいで、紙の角が湿って、指でつまむとやたら従順に曲がる。生活感って、画面には映らないのに、なぜかマイクには映る。
会議の開始五分前、私はカメラをオンにして、顔の角度を探した。画面の自分が、いつもより少し疲れて見える。春なのに、疲れが冬のまま残っている感じだ。
「聞こえてますかー」
司会の声。みんなの四角い顔が並ぶ。背景は白壁だったり、本棚だったり、洗濯物を避けきれずに映り込んでいたりする。私はミュートのまま、うなずいた。
今日の議題は、来月のリリースに向けた調整。ふわっとした言葉が多い回だ。ふわっとしてるのは言葉で、締切だけはふわっとしない。そこがいつも怖い。
「で、ここの要件なんですけど……」
若手の坂本さんが説明を始める。彼の話し方は丁寧で、丁寧すぎて要点が奥に隠れることがある。私はメモを取りながら、つい口が動いた。
「いや、そこは……無理でしょ」
独り言のつもりだった。机に向かって言った。画面じゃなく、キーボードの隙間に向かって。
その瞬間、画面の左下でミュートのマークが消えていたのを、私は見た。消えて、マイクのアイコンが緑に光った。
空気が、冷えた。
坂本さんの口が止まる。司会が一瞬だけ目を伏せる。誰かが咳払いをして、それもなぜか遠く感じる。私は自分の心臓の音のほうが大きい気がして、またマイクを押した。今度はちゃんと斜線が入る。
斜線が入った瞬間に、私は喋りたくなった。
「すみません! 今の、独り言で……いや、独り言でもダメで……すみません、ほんとに……」
ミュート解除。謝罪。ミュート。謝罪。私の指が忙しい。忙しいのに、何ひとつ進んでいない。謝れば謝るほど、画面の四角たちが固くなるのがわかる。謝罪って、便利だけど、時々「話を終わらせる道具」になる。
「……大丈夫です」
坂本さんが言う。大丈夫の言い方が、どこにも置けない感じだった。机の上のレシートみたいに。
私はさらに口を開く。
「いやでも、ほんとに申し訳なくて。今のは、僕の癖で……」
癖、って言葉が出たところで、自分の中で何かが止まった。癖を盾にして、場を流そうとしている。ミュートを盾にして、生活の音を隠すみたいに。
司会が言う。
「いったん、続けましょうか」
続ける。続けるけど、続け方がわからないまま続く会議って、電車の中の沈黙みたいだ。吊り革だけが正しい。
私は画面を見て、レシートを見て、もう一度画面を見る。坂本さんが説明を再開する。声が少しだけ小さい。私は手元のコーヒーカップを持ち上げて、置き場所を変えた。カップの底が机に当たる音が、やけに大きく聞こえて、また怖くなる。
ここで黙るのが正解だと思った。黙って、反省して、あとでチャットで謝る。いつものパターン。だけど、いつものパターンって、たいてい「あとで」が来ない。
ミュートのマークを見た。斜線一本。祈りの記号。
私は、ミュートを押したまま、深呼吸した。息の音がマイクに乗らないのが、少しだけありがたい。整えるための沈黙。隠すための沈黙じゃなく。
それから、ミュートを外した。
「坂本さん、さっきの僕の言い方、すみません」
謝罪から入った。でも、今度は謝罪で終わらせない。終わらせたくない。
「“無理”って言ったのは、攻撃じゃなくて……確認したいポイントがあって」
言葉を選ぶと、時間が少し伸びる。その伸びた時間の分だけ、画面の人たちが待ってくれているのがわかる。誰も割り込まない。誰も笑わない。待つって、温度だ。
「この要件、現状の工数だと、テスト期間が削れそうで怖いです。もし同じことを目指すなら、どこを削る想定ですか? それとも、段階的に分けますか」
口に出した瞬間、私の中のトゲが、ちゃんと形を変えた気がした。刺すためじゃなく、指でつまめる形に。
坂本さんが画面の向こうで、少しだけ肩の力を抜いた。
「あ……そうですね。削るところ、ちゃんと決めてなくて。段階的、ありかもです」
司会がうなずく。
「それ、いいですね。亮さんの懸念、整理すると“テスト”ですよね。じゃあ、優先度で分けましょう」
誰かが「助かります」と言った。別の誰かが「それならいけそう」と言った。会議の四角たちが、また人間の顔に戻っていく。画面越しに、温度が戻る感じがする。冬のまま残っていた疲れが、ほんの少しだけ溶ける。
私はレシートを指でこすった。湿った角が、乾きかけてざらっとしている。春って、こういう変化が早い。
会議が終わる頃、キーボードの音が部屋に増えた。カタカタ、カタ。誰かがメモをまとめている音。私も入力する。議事録の欄に、さっきの「確認したいポイント」を、もう少し短く整えて書いた。
ミュートのボタンを一度押して、斜線を入れる。最後に、もう一度押して外す。動作が前より丁寧になっているのが、自分でもわかる。
ミュートは、隠す道具じゃない。整える道具だ。そう思うと、さっきの失敗が、ただの恥じゃなくなる。場を壊しかけたのに、場の形を少しだけ見せた。誰も完璧じゃないってことと、完璧じゃなくても話せるってこと。
窓の外の光が、机の端に伸びていた。春の光は、画面の中よりもずっと明るい。私はレシートをゴミ箱に捨てて、指先を拭いた。キーボードを打つ音が、部屋に残る。
通知音は鳴らない。鳴らなくても、世界は進む。進むから、こちらも少しだけ、指の置き方を変えられる。
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